From KSRG ✯「 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 」(38)

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⬜ 今回から

ヨハネの黙示録 11章 8節の考察を行いたいと思います。

( 内容は前回からの続きになります。)

 

 

口語訳 を見ると

「 彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。

彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。」

と書かれてあります。

 

 

この部分なのですが、

 

 

彼らの死体 と言うのは、文字通りの死体でないことは お分りかと思います。

 

····その後に続き

ソドムやエジプトにたとえられている 大いなる都の大通りにさらされる。

とあるからです。

勿論 この部分の解説も行っていくのですが ┄。

 

 

┄ 確かに、西と東の主だった者たちは、一匹の獣からの攻撃を受け、手仕舞いを付けて自主的に活動を終えたわけですが、

ここで述べられているのは、あくまでも 象徴的な表現であることはお分かり頂けると思います。

 

 

それで、興味深いのは

新改訳聖書 2017年版の訳し方です。

 

次のように書かれてあります。  

      ⇩

「 彼らの死体は大きな都の大通りにさらされる。その都は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれ、そこで彼らの主も十字架にかけらたのである。」

 

 

ここで述べられている

 

 

“ 霊的な理解では、ソドム と エジプト と呼ばれ”   ているもの。

そして、

“ 彼らの主(イエス・キリスト)が十字架にかけらた ” ところ。 

です。

 

この、

“ ソドム と エジプト ” については 後で考えるとして、

 

 

“ 彼らの主 ” つまり、イエス・キリストが十字架にかけられたところ、

こちらから考えてみましょう。

 

 

イエス・キリストは、ゴルゴダの丘で十字架にかけられました。

 

一般に、ゴルゴダの丘は、エルサレムの丘と呼ばれています。

 

 

ここで一つ押さえて置くべきことは、

イエス・キリストは誰によって死に追い込まれたのかと言うことです。

 

 

それは ユダヤ人 です。

 

マタイによる福音書 27章 24−25節 から確認してみましょう。

 

24節の中ほどを見てみますと、

 

ピラトはユダヤ人の群衆を前にして こう述べています。(口語訳)

 

『 この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい 』。

 

それに対し、そこに居た群衆(ユダヤ人)は、一斉に このように言い放ったのです。

 

 

「 すると、民衆全体が答えて言った、『 その血の責任は、われわれと われわれの子孫の上にかかってもよい』。

 

 

この 一部始終 をご覧になっていたヤハウェは その時の状況、ユダヤ人たちが語った言葉 を

聖書に残されたわけです。

 

 

時は過ぎ

 

┅ 現在、バイブルを聖典とする宗教世界は、ユダヤ人に救いを求めているわけです。

でも、それが 自称ユダヤ であろうが、正当ユダヤであろうが、そもそも ユダヤ人に救い(救う力)はありません。

なぜなら、彼ら自らヤハウェからの救済の機会を蹴ったからです。

 

そのように メシア(救世主)が、現在のユダヤ人から現れると信じて居られる方々には残念ですが、これが 聖書からの答えです。

 

 

また 例えば、スピリチュアル界や、一部の 都市伝説界によると、『日本に渡って来ているユダヤ人、これこそが正当ユダヤであり、今後  そのユダヤの血を持った者からメシアが現れる』などと、

そのように盲信している方々も居られるようですが、

そのような説については、もう論外としか言いようがありません。

 

 

それでは、二人の証人が さらされる。とは、どのような意味なのでしょうか。

 

また、霊的な理解でたとえられている ソドム、そしてエジプト とは、何を表しているのでしょうか。

 

そして、彼らの主もそこで十字架にかけらた と言う この部分は、どのように解釈されるべきなのでしょうか。

 

次回から それらを、一つ一つ ひも解いて行きたいと思います。

 

 

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