From KSRG ✯「 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 」−(41)

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⬜ では 早速、前回からの続きで、11章 9節 の「 もろもろの ····人々 」が 誰を表しているのか、について解説して行きます。

 

まず、その節 全体を見てみますと、

 
新改訳聖書 2017年版 11章 9節

「 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺めていて、その死体を墓に葬ることを許さない。」

 

 

と 書かれてありますが、

 

 

ここで  “死体” と訳されている ギリシャ語は

 

字義的には、死者、死んだ者 です。

まず、このことを押さえておいて下さい。

 

ですから、その死体、

つまり、比喩的な意味で死んだ者を墓に葬ることを許さない と言う事です。

 

 

そして “死者、死んだ者” から更に 考えて行きたいと思いますが、

 

 

どうしても、死体とか、遺体 などのように訳されていると 、何も出来ない、無活動の状態 と言うイメージを抱いてしまうと思うのですが、

 

 

しかし、字義的には、死者、死んだ者 と言う意味であるわけです。

 

 

そして 、死んだ者 と言うと、何に対して死んだ者なのかと言う 方向にも広げて黙想 できます。

 

   

また、更に それに関連した 他の聖句とも関連させて 解釈できます。 

 

 

 

ヨハネの黙示録 11章 8節を見てみますと、

「 彼らの死体は 」と言うふうに訳されています。

( これは日本語のすべての訳で、そのように訳されています。)

 

 

しかし、海外のほとんどの聖書の この部分を直訳すると、

それら “ 死んだ者たちは ”

なのです。

 

 

そして 9節の中ほど の

「 彼らの死体を眺めていて」

と言う この部分も すべての日本語の訳では、そのように訳されているのですが、

 

これも 同じです。

 

字義通りに訳すなら、

“ それら、死んだ者たちを眺めていて ”   なのです。

 

 

また、「 その死体を墓に葬ることを許さない 」

この部分も同様で、字義通りに訳すなら、

“ その 死んだ者たちを 墓に葬ることを許さない ”

となるのです。

 

 

この点に関しては、日本語訳では 字義通りに訳されておらず、恐らく 先入観、思い込みからこのように訳されたと言う事なのでしょう。

 

 

それでは、

ここで 言っている

「 死んだ者 」とは、どういう意味なのでしょうか。

 

 

結論から言いますと、

悪魔の世に対しては死に、キリストを通して ヤハウェのものになった者

と言うことです。

 

 

 

今から挙げる 3つの聖句は、とても大切な聖句ですので、後々、深掘り考察 する予定ですが、とりあえず、

今回は、下に 記載しておきますので、皆様で黙想なさってみて下さい。

      

                       ⇩

 
新改訳聖書2017年版から )
1、ローマ人への手紙 6章 3節
「 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」
 
2、コロサイ人への手紙 3章 3節
「 あなたがたは すでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」
 
3、ローマ人への手紙 14章 7・8節
「 私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」
 

前述の通り、ここに 挙げた聖句は、後ほど 改めて 解説致しますが、

 

ここで言っている、“死体” つまり “死んだ者” とは そのような意味であると言うことを 押さえて頂ければと思います。

 

 

それでは、続けて行きたいと思います。

 

 

 

 

この 9節 の人々は、象徴的な 三日半の間、その死体を、つまり、先ほどの解釈でいう 死んだ者たち を 眺めていて、と書かれてあるわけです。

 

 

ここで、“ 眺めていて ” と訳されている ギリシャ語の意味は、

 

解釈的には、
よくよく見つめる、熟視する、良い事、また 価値ある事を真剣な態度で見つめること、見渡す(網羅する。)、知識を深める、納得の行くまで学ぶこと、 
などの意味があります。

 

 

日本語の訳では、“ 眺めていて ” と訳されており、

 

日本語の眺めるという語には、通常は、

 

つくづくと見つめる、物思いにふける、感情を込め、または、感傷的な態度で見つめる、見渡す、特にそれが良いこと、見やるべき価値のあるものをよくよく見つめる などの意味がありますが、

 

本来、9節のこの部分で使われている語は、先に挙げた意味を持つギリシャ語が使われていると言う事です。

 

 

日本語の中には、その言葉を 一言で表現できるような丁度よい言葉が無かったがゆえに、

その中でも最も近い言葉を選び、“眺めていて” と訳されたと言う事です。

 

 

では  その次に、

「 その死体を墓に葬ることを許さない。」

と 訳されている、このギリシャ語の意味です。

   

               ⇩

見過ごすことが出来ない、納得できない、見て見ぬふりができない、見逃すわけにはいかない、同意できない、と言う意味で 
要するに、揉み消すことを許さない。ということです。

 

聖書の中で 墓は、無の状態 または、無活動と言う意味もありますので、

 

9節に出て来る人々には、

二人の証人が、そのようになる事を見過ごせない、受け入れられない、納得出来ない、見て見ぬふりが出来ない、見逃すわけにはいかない、揉み消すことを許さない、と言う 強い思い、強い意思 がある と言う事です。

 

 

10節に出て来る「 地の人々」とは、何と対照的なのでしょう。

【* “その者たち” は、その時に 二人の証人が、悪魔の世に対しては死に、キリストを通してヤハウェのものとなったなどと言う事実を知りません。只々 活動をやめたことに対して 喜んでいるということです。】

 

 

この11章9節の “人々”こそ、ヨハネの黙示録 7章 9節に書かれてある、

「 その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子(やし)の枝を持っていた。」

と書かれてある人たちの事です。

 

ご納得 いただけたでしょうか。

 

 

ここまでで、

ヨハネの黙示録11章 9節からの部分に書かれてあるように、

 

また、9・10節 の意味を考えただけでも、二人の証人は決して無活動の状態ではない と言う事が分かると思います。

 

 

ヨハネの黙示録 11章 8節からの部分に書かれてあるように、霊的な理解では、悪魔の世から見れば死に、正式にヤハウェのものとなった者たちのことを、

今回の、“ 眺めている ”  という意味で、

 

三日半の期間中、その “死んだ者たち” から、

納得の行くまで、知識を深めている者たちがいるからです。

 

 

それでは、次回、ヨハネの黙示録 11章 11節にもう一度戻り、この三日半の奥義について、話を進めて行きたいと思います。

 

( ※ この11節の解釈については、新改訳聖書2017年版の訳でなければ、正しく解釈することは出来ません。)

 

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