From KSRG ✯「 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 」−(40)

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⬜ 今回から、9・10節の解説に入って行きますが、

 

 

二人の証人が 殺された時、

新改訳聖書 2017年版の 9節を見ると、

 

「 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、···· 」

 

と書かれてあります。

 

 

そして 10節には、

「 地に住む者たちは、····」

 

とあるのですが。

 

 

この9節の人々と、10節の地に住む者たちは、同じ者のことを言っているのでしょうか。

 

┄ もし同じ人々のことを言っているのであれば、

 

「 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、·····  許さない。」

 

そして、 そのまま 10節の 

「 彼らのことで喜び祝って····」

と 続けても 良いわけです。

 

 

しかし 繰り返しますが、10節で、敢えて

「 地に住む者たちは 」

と言う言葉が入っているのです。

 

実は この言葉が 入っていることには意味があります。

 
( ※ この 11章10節 では、“地に住む者たち ” と言うワードが 二度 使われています。
聖書の預言を解き明かす際に、同じワードが二度使われている場合、これは 以前にも説明しましたが、三日半の場合と同様、ある 特別なメッセージを読者に 印象付ける目的で、そのような用法が用いられる事があります。
今回の場合、9節に登場している 人々と、10節に登場してくる 地に住む者たち は、 さらっと流して読むと、一見 同じ人々の事を指しているように思われがちですが、地に住む者たち と言うワードが敢えて二度使われていることにより、9節の人々とは全く 別の者であると言うメッセージを読者に示していることが分かります。)

 

 

結論から言いますと、こ

の 9節に書かれている人たちと 10節で述べられている者たちは、同じものではありません。

 

その事は、日本語訳だけでも理解できると思いますが。

 

     

この点は ここではっきりさせておきたいと思います。

 

 

それで まずは、この10節で 述べられている人たちが何者なのかについて、

 

これは、You Tubeチャンネル From KSRG の動画の中で解説していた、

「 地の用法」から考えてみることが出来ます。

 

“ 地 ” と言うワードが預言的 描写で使われている場合、

 

国々、特定の人々、安定性、整えられている、備えられている、

などを表していました。

 

 

そうしますと、ここに出て来る  地に住む者たち は、

 

全世界の、ある特定の人々であり、それも整えられ、備えられ、安定している と言える、

 

平たく言うと、

世間一般的に見て、ある意味 信頼できる、そして一目置かれているなど ┄。

 

そして この文脈から分かることですが、

宗教的な意味において、安定している特定の人々と考えることが出来ます。

 

 

そこまで説明すれば、ある程度 お分りになるかも知れませんが、

 

 

これは、バイブルを聖典とした すべての 宗教世界の人々を表していると言えます。

 

主に キリスト教です。

 

実際に多くのキリスト教は、神父や牧師 等、この世で認められている、一目置かれている教師たちが、信者たちを教えています。

また、目に見える立派な建物、そこに足を踏み入れただけで、ある人々はその荘厳な雰囲気に圧倒され、そこに神がおられると感じる方もいます。

 

或は、指導者が、神父や牧師と呼ばれていないとしても、この世から、宗教法人として

法人格を取得していることでも、国の法律によって保護されます。

そういった面でも、安定していると言えるでしょう。

 
.....
 
宗教団体が、法人格を取得することにどのようなメリットがあるのか、 少し 宗教法人法から、法人の目的  について 紹介します。
( ※ 以下は宗教法人法から一部抜粋したものです。ご自身でも調べる事ができますので、気になる方は、確認してみて下さい。)
··· 第一条 ···
① この法律は、宗教団体が、礼拝の施設 その他の財産を所有し、それを維持 運用し、その他 その目的達成の為の 業務 及び、事業を運営することに資するため、宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする。
憲法で保障された 信教の自由は、すべての国政において 尊重されなければならない。従って、この法律のいかなる規定も、個人、集団 または 団体が、その 保障された自由に基いて、教義を広め、儀式 行事を行い、その他 宗教上の行為を行うことを制限するものと解釈してはならない。
 
そして、第二条 へと続いているわけですが、
 
事実、宗教法人化のメリットは、法人名義で財産を所有できる。
収益事業の所得に課される法人税率が低い。
収益事業を行わない限り、法人事業税、道府県民税、市町村民税を課されない。(言い換えれば、収益事業という名目でなければ、収益に対する税は課されません。)
例えば、···· これは 事業ではありません、ボランティアです。
テキスト等は基本は無料です。
しかし、お布施 寄付としては受け取ります。
と このような仕方であれば、収益があっても税は課されないということです。(これは一例です。)
また、利子所得、配当所得 等について、所得税が課されない。
都市計画税が課されない。
これらは、宗教法人化することに関する日本の法律の ほんの一部ですが、一言で言うならば、法人格を国から取得する事により、その団体、組織に対する国からの様々な保護が得られるということです。

 

 

ですから信者たちは、そういった意味においても、安定していて、整えられている、

それぞれの宗教の組織の中に籍を置き、定期的に集って、そこでの責任を果しているならば、┄

 

(  信者の責任には、
例えば  • 教理面において そこでの指導者に従う事。
• 要求されている御布施をきちんと払う。
• そこで出版されているテキストなどを寄付等を支払う形で受け取る。
• ミサ、クリスマス、イースター等のいわゆる特別な行事に参加するに当たって、その教会のやり方に忠実に従う 等々。)

 

そうしてさえいるなら、聖書で言う、

天国は約束されている、と信じているわけです。

 

ただし、

この文脈の趣旨から読み取れるのは、一般の信者と言うより、

特に 宗教指導者を表していると言えます。

 

実際に、指導者の立場にいる人たちは、

真理の正確な知識を知ったとしても、自分を、また 自分たちの信条や教理を正そうとはしないでしょう。

そのような かたくなとも言える 宗教指導者たちは、

先ほどの条件に最も当てはまると言えます。

 

指導的な立場の人たちが、自分の生き方、自分の信条や教理を聖書の正確な知識に沿って正すことは、直結、自分の今の立場、収入源などを失う事に繫がることを知っていますから、それでも正そうとする者がいるかということです。

 

 

ですから、彼らは、

10節の中ほどにあるように、「 彼らのことで 」つまり、二人の証人が殺された事に関して、

「 喜び祝って、互いに贈り物を交わす。」

と 書かれてあるのです。

 

 

なぜ 喜ぶのでしょうか、

その理由は、続く部分に このように あります。

 

「 この二人の預言者たちが、地に住む者たちを苦しめたからである。」

··· と。

 

二人の証人の述べ伝えている内容が “地に住む者たち” を  大いに不快にし、苦しめる ものだったと言う事です。

 

 

そして 次に、興味深い点として、

 

「 地に住む者たち 」と言うのが、

9節に書かれてある人々とは、別の人々のことを言っている事の根拠の一つとして、

 

 

それらの人々は、二人の証人が死んだので、

(ほんの短い期間)喜び祝って、互いに贈り物を交わした、と言っているのであって、

 

三日半という期間、二人の証人のことを眺めているわけではありません。

その事からも分かると思います。

 

 

後で解説していきますが、

まず、“ 喜び祝って、互いに贈り物を交わした期間 ” と

 

“ 三日半 ” という期間 は全く違います。

 

 

では、9節に登場している、「 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々  」

 

とは 誰の事を述べているのでしょうか。

 

その点を考えてみましょう。

 

 

彼らは三日半の間、彼ら(二人の証人)の死体を眺めていて、とあります。

 

 

この状況を常識的な観点から考えてみますと、

 

パレスチナ地方で、

亡くなった人を三日半もの間 見続けるというのは無理があるでしょう。

 

 

実は、この 9節の意味を理解するには、

 

 

9節の「 彼らの死体を眺めていて 」

とある、

 

この  “ 眺めていて ” と訳されている  ギリシャ語。

 

そして 、「 その死体を墓に葬ることを許さない 」 の、

“葬ることを許さない”

と 訳されているギリシャ語、

 

これらが、この部分を理解する カギ となります。

 

 

そして 実は、この 9節 に登場してくる人々は、ヨハネの黙示録の別の ある箇所にも、同じような描写で登場しています。

 

 

では、次回 から これらの続きを解説して行きたいと思います。

 

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◇ 今回 最後に、この事も 皆様に お伝えしたいと思います。
現在、ヨハネの黙示録で言う、三日半の期間に入っています。
この特別な期間については、引き続き 当ブログの連載記事で情報をお分かちしていきたいと思います。
また、iza2464さんのブログからは、別の角度から、この三日半という期間は、特に14万4千人級は、何をしていなければならない期間なのか。
についての詳細を明らかにしてくれることでしょう。
一つだけ、ここで言える事は、今は利己的になっている時ではないということです。
“利己的” とはどういった思考の事でしょうか?
次のイエス・キリストの言葉からも 黙想する事ができます。 
イエス・キリストは、マタイの福音書 6章25節 でこのように言われました。 

 

(新改訳2017年版)
「 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか 何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。····」
 
また、
マタイの福音書 16章25・26節   では このようにも 言われました。
 
「 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は それを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」
 
今は、人間的な主観で、利己的になっている時ではありません。
たとえ それが、5つの事に関係することで、備蓄や武装などに関することであっても 注意は必要です。
祈りのうちに、計画的に物事を進めてきたなら、後はヤハウェに委ねることができるでしょう。
 
“もう少し〇〇を足さないといけないだろうか?” とか、“△△もあったほうが良いだろうか? ” と、 “過度に不安に感じたり”、“思い煩っている” とするなら、まさに先ほどの聖句の状態にあると言えるかも知れません。
もし  必要であれば、ヤハウェが備えるように動かして下さっていることでしょうし、
その時が来たら、困らないように何の不自由も、何の不足も無い状態にしておきたいというのは、
現実的ではないかも知れませんし、そのような見方は 人間的と言えるでしょう。
自分に出来ることを精一杯 行ったなら 後は、有るもので  ┄、
つまり、ヤハウェに頼るということです。
 
そのような点においても、今は、利己的になっている時ではありません。
むしろ、ヤハウェとの関係を強め、益々 利他的になるよう励むことに集中すべき時です。
 
そのことを先ほどの聖句から、読み取って頂けたらと思います。
 
今回はこの事を最後に付け足させて頂きました。
   

 

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