From KSRG ✰「 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 」(20)

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《 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 》―(20)

   〚 群れの監督者 − ➍ 〛

 

 

⬜ では、早速 本論に入って行きたいと思います。

 

まず、監督者というのは、ヤハウェの羊たちを、

あたかも 羊飼いであるかのように 牧するという務めがあります。

( ✳ 当然、ヤハウェは ‘’羊の所有者‘’ であり ‘’偉大な羊飼い ‘’  です。

そして イエス・キリスト は  ヤハウェ から羊の世話を任せられた ‘’立派な羊飼い ‘’  です。)

 

それで 監督者は、そのヤハウェとイエスに倣い、

‘’ 従属の羊飼い‘’ として 羊を牧さなければならないと言うことです。

 

 この責任は重大です。

 

この務めが どれほどの重責であるかを理解するために、

ここで、補足情報として、実際の当時の羊飼いについて 少し お話 したいと思います。

 
 · •  補足情報  • ·
古代パレスチナ地方では、主に羊毛 や 乳 などの、様々な生産物を目的として、羊を飼う者が多かったようです。
元々 家畜の羊というのは、羊飼いがいないと 無力で臆病で、群れから迷い出たり、 散ってしまったりして、守ってくれる者がいないと 簡単に 捕食動物の餌食になってしまいました。
ですから、基本的に、羊の命は羊飼いに依存していた ということです。
そして、羊飼いは 大抵は羊を群れで世話することが多く、
羊の群れを世話するのは、所有者やその子供や親族である場合も少なくありませんでしたが、裕福な家庭では、家の僕が羊飼いとして働くという事もありました。
それで、興味深い事ですが、羊の世話をするのが 所有者やその家族である場合には、 普通、羊の群れは元気でしたが、
雇われた人ともなると、群れに対して同様の関心をいつも払うわけではなかったので、群れが苦しむということもあったようです。
(ヨハネによる福音書 10:12・13 参照)
 羊飼いの仕事は、群れの番をし、養い、保護すると言うものでしたが、羊飼いとしての生活は決して楽なものではありませんでした。
暑さ 寒さを経験し、羊のために 眠らず 夜を過ごすこともありました。
また、身の危険を冒しても、ライオンやオオカミや熊などの捕食動物から、また 盗人からも群れを守る必要があました。
ですから、それなりの装備もしていたようです。
特に気を使う事としては、群れが、散らないようにすることや、弱った子羊や疲れた子羊を、懐に入れてたずさえたり、
骨折した脚に包帯をしたり、傷口に油をぬったりと、病気の羊や、 けがをした羊の世話をしなければなりませんでしたし、また、乳を飲ませている雌の羊の番をする時などには特別な 気遣いを示さなければなりませんでした。
また、雇われた羊飼いである場合、
羊が 野獣に引き裂かれた などの 不可抗力の場合を除き、
羊飼い自身に過失のある損失には償いの責任もありました。
大まかにですが、羊飼いの仕事はこのようなものだった と言うことです。  

 

          ▫  ▫  ▫  ▫

 

このような内容から、

羊飼いの、主人に対する忠節心や また 主人の所有している羊に対する思いや認識が、羊の命や健康に大きく影響していたことも理解できると思います。

 

それで、当時、このような 背景で生活していた者であれば、

‘’ヤハウェの羊‘’ を牧するという事がどれほど重大な責任であるか、よく理解 出来ていたことでしょう。

 

ですから、そのことを理解していた人であれば、安易に ‘’自分にやらせて下さい ‘’ と言う気持ちには、なれなかったかも知れません。

 

 

なぜなら、監督者が

見守り、牧して行かなければならないのは、‘’ヤハウェの羊‘’

だからです。

 

つまりは、そのヤハウェの羊たちの魂を見守る責任があると言うことです。

それは、羊の霊的な命を見守ると言うことです。

 

 

それで 例えば ですが、

もし、監督者なる者が 何かしらの事で、羊を つまずかせてしまた 場合、

( ※ この場合、関係しているのは、明らかに自身が原因を作ってしまった場合の事で、謂れのない非難については別です。)

 

 

そのような場合、ヤハウェに対して言い開きが求められます。  当然です。

 

それが原因で、ヤハウェの羊が ヤハウェから離れると言う結果になってしまうからです。

 

 

但し ヤハウェは、監督者になりたいと望む人に関して、その人の すべてをご存知ですので、

 

これまで 記事の中で 述べてきた事柄は 勿論ですが、

これから お話 していく事柄に関しても、ヤハウェの基準に達していない人を、 むやみに

ご自分の大切な羊を 牧させるという、その立場に任命することなどは ありません。

 

 

ただ、群れの監督者として 任命されるか、否かに 関わらず、その基準に到達するよう 努力する事は、立派なことです。

  是非 すべての人が追い求めることをお勧めしたいと思います。

 

 

では、次に、パウロが述べた この言葉から 考えていきたいと思います。

     ⇩

 

コリント人への第一の手紙 9章 18― 23節  です。

     

「 それでは、その報酬は なんであるか。

福音を宣べ伝えるのに それを 無代価で 提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。

わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んで すべての人の奴隷になった。

ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。

律法の下(もと)にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。

律法のない人には___わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが___律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。

弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。

すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。

福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも福音にあずかるためである。」

 

 

ここに書かれてあるように、

 

パウロは、ユダヤ人には ユダヤ人のように、律法のない人には 律法のない人のように、弱い人には 弱い者のようになった、 とありますが。

 

これは どういう事でしょうか。

 

ここで 伝えている、一つのメッセージは、

 

まず、どんな境遇にある人にでも、ある程度は、そのような人々の痛みを理解できる人でなければ、と言う事です。

 

この、

人の痛み が理解できる、と言う点に関しては、自分自身も ある程度 辛い経験をしてきていると言うことも関係しているかも知れません。

 

でも、だからと言って、必ずしも それまでに 辛い経験をしてきた人でなければならない、と言う意味ではありませんが、

 

往々にして そのような辛い経験を重ねて来ている人と言うのは、他の人の痛みについても理解しやすく、

感情移入しやすいと言えるかも知れません。

 

 

 

それでは、ここで 少し 聖書中の実例からも 考えてみたいと 思います。

 

 

皆様は、ヨブ と言う人物をご存知でしょうか。

 

ヨブについては、ヨブ記と言う、一つの書として収められているほどで、良く知られている人物ですが、

まだ、よく知らないと言われる方の為に概略だけ お話していきます。

 

ヨブは、誠実で善良な人で、正義感も道徳意識も高く、

神を恐れる、

ヤハウェからも、人々からも富んだ人物でした。

 

そのヨブに 悪魔は目を付け、ヤハウェにヨブの忠誠心に関して異議を唱えた訳です。

 

つまり、ヨブはヤハウェから保護され、祝福されているから、あのように 立派に行動しているが、ヤハウェが保護を取り去り、災いに遭遇すれば、直ぐにヤハウェを呪うに違いない!

と主張したわけです。

 

その辺りは ヨブ記を読まれると 分かりますが、

 

一時的に、ヤハウェの保護が取り除かれたヨブに対して 悪魔は集中 放火を浴びせました。

 

まず、悪魔は、ヨブの全財産を破産させ。

 

次に、ヨブのすべての子供達 が亡くなるようにしました。

 

そして  ヨブ自身は、悪性の腫れ物を伴う 疫病で打たれました。

 

聖書中には、その疫病について詳しく記述されていませんが、

命こそ取られなかったとは言え、相当な苦しみであったことがわかります。

 

ある歴史家は、ヨブの症状について、このように

述べています。

 

「 高熱で悩まされ、体中に痛みと酷いかゆみの伴う腫れ物で、膿も出ると言うもので、普通の人であれば、恐らく気が持たなかったであろう。」

 

恐らく普通の人がこのような目に遭えば、間違いなく精神に異常を来たすようなものだったということです。

 

 

そのような 災いが立て続けに起きた時に、ヨブの妻は どうだったのでしょうか。

 

( ヨブの妻に関して、今回はあまり深く話しませんが、妻も相当苦しんだことでしょう。 )

 

ヨブが信頼していた最愛の妻も とうとう、『ヤハウェを呪って死になさい !! 』

と言って、ヨブを捨てて 逃げてしまいました。

 

 

更に、その後です。

 3人の友人達が  悪魔に用いられ、ヨブの家を訪れます。

 

ヨブを見舞って慰めると言う目的で集まったはずの友人達は、話しているうちに、とうとう3人掛かりで

 

災いに遭ったのは、ヨブがこれまで、密かに悪いことをしていたからに違いないと 決めつけ、言葉によって、何日も、ヨブを責め続けました。

 

悪魔の狙いは、なんとかしてヨブにヤハウェを呪わせることでした。

 

 

ですが、ヨブは

ヨブ記 27章 5節 で、

 

「 私は 息絶えるまで、自分の誠実さを この身から離さない。」(新共同訳)

 

と 述べています。

 

結果は、ヨブは、最後まで神ヤハウェに対する忠節心を保ち続ける事ができ、

 

そうする事で、悪魔に返答する事ができました。

 

 

手短 に話すとこのような内容ですが、

 

この、ヨブ記の経験には、我々に対する様々な教訓が含まれています。

 

勿論、その結末を見ると、ヤハウェは ヨブを大いに祝福し、その時 失くしたものの何倍もの祝福をヨブは受けることになりましたが。

 

 

それで、

今回 考慮している 論点に戻り、 少し 考えてみましょう。

 

 

 ···· もし、今の終末の期間においても、ヤハウェに仕えているがゆえに、例えば ヨブ程の経験をしてきた 人であれば、

 

ある程度は、他の人の痛みに関しても理解したり、感情移入しやすいかも知れないと言うことですが。

 

ただ、だからといって、先程も言いましたように、必ずしもヨブのような 経験をしなければならないと言うわけではありません。

 

これは、あくまでも例として挙げているわけですが····。

 

興味深い点として、

 

ヨブは 最後に、自分のもとに来た友人たちの為に祈りヤハウェに執り成しをしたんです。

 

それら 友人たちは、ヨブが一番苦しい時に、ヨブを励まし 助けるどころか 言葉で責めたにもかかわらず、です。

 

特に ヤハウェに関して、正しいことを話さなかったという点においても、

 

それら、友人たちの取った 行動 全てについて、ヤハウェに祈ったんです。

 

この部分は、深いところですが、聖書の記述だけでは 読み取るのが難しい部分ですので。

もう少し、説明を加えたいと思います。

     ⇩

 

   🔸 🔸 🔸 🔸  

◇ まず、ヨブのもとに来た友人たちのうち、一人(エリフ)だけはヨブに対しても、ヤハウェに対しても消極的な事、また間違った事は口にしませんでした。
それで、ここから話していくのは特にそれ以外の 友人(エリパズ、ビルダデ、ゾパル)について と言うことです。
まず、その友人達は、それぞれが、ヨブ程ではありませんが、既に 何かしらの試練や苦しい状況にあったと考えられます。
それで、この三人は 自分がこのような目に遭っているのは なぜなのか、また 内心では 神から もたらされているとも 感じ、神に対して不信感を募らせていたようです。
そのような折に、ヨブのことを聞き付けた訳です。
ですから、表面上は慰めるためと言っても、内心では、ヨブ自身の、災いの原因となったであろう何か、そしてこの災いは、ヨブの悪行ゆえ、神から来ているなどと、
心の中で沸々と感じている事が 言葉となって ほとばしり出てしまったのでしょう。
一人がそのように言いかけたら、他の友人も もう止まりません。
ですから、それに対して ヨブ自身も自分の身の潔白を弁明する事で頭がいっぱいになってしまっていたことが、分かります。
ヨブは、自分の置かれた このような境遇ゆえに、ヤハウェを擁護するよりも、自分の正当性を立証する事の方が重要になってしまいました。
 ···· そこで、そのやり取りを終始ずっと黙って 客観的に聞いていた、一人の最年少の友人エリフが、最後に口を開き、
ヤハウェを擁護し、ヨブの見方を正しました。
そのエリフの言葉によって、調整された ヨブは自分の間違った考えを悔い改め、ヤハウェに祈ったところ、
ヤハウェは、ヨブに指示を与えました。
その指示というのは、ヤハウェについて間違ったことを言った、友人たちのために祈り、執り成しをすると いうものでした。
勿論、ヨブは指示 通りにしたわけですが、
その時のヨブの祈りが、心から、友人達を助けたいというものであったことは、結果をみれば一目瞭然です。
ヤハウェは心をご覧になられるからです。)
元々 善良であったヨブでしたが、このわずかの期間に悪魔によって引き起こされた、様々な災厄をヨブ自身が 経験することで、
それらの友人たちが、なぜ そのように、消極的な考え方をしていたのか、それらの友人たちもそれぞれ何かしらの理由で苦しんでいたんだ と言うこと、
そのような時には、災厄が神から来ていると 考えてしまっても無理もない事を、直ぐに悟って、それらの友人たちを助けるために、自分に出来ることを、喜んで行なったと言うことです。
ヨブの受けた、数々の苦しみは、友人達の経験しているものとは比べ物にならないほどのものです。また ヨブはその時点では まだ病気の症状で苦しい状態にありましたが、ヨブはこれらの経験を通して 最も大切な教訓を学んだと言うことです。
つまり、憐れみや 同情心、そして 利他的な愛です。
ですから そのような苦しい中にも関わらず、自分の事よりも、友人達を助けるために、ヤハウェに祈ったと言うことです。
すると、ヤハウェは、その祈りをすぐに聞かれ、
ヨブを通して、それらの友人達の犠牲を受け入れられました。

 

     🔸 🔸 🔸 🔸

 

この、ヨブ記の記述から、学べる事として、

ヤハウェにお仕えしているが故に 経験するかもしれない、様々な試練は、その人を霊的に成長させるなどの益があることから、

ヤハウェは、その人が試練を受ける事を許される場合があると言うことも知ることが出来たと思いますし、

ことに 監督者にとっては、そのように言えるでしょう。

 

 

では、今回 最後に、もう一つ、

イザヤ書 32章 の 1・2節を紹介して終わりたいと 思います。

     ⇩

 

イザヤ書 32章 1・2 節

「 見よ、ひとりの王が 正義をもって統(す)べ 治め、

君たちは公平をもって つかさどり、

おのおの風をさける所、暴風雨をのがれる所のようになり、

かわいた所にある水の流れのように、

疲れた地にある大きな岩の陰のようになる。」

 

この聖句の 1節 にある、 

‘’ 君たち ‘’  と言うのが、

群れの監督者のことです。

 

 

では、次回は、 この部分の解説を行ないたいと思います。

    
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