From KSRG ✰「 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る」(21)

°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°

《 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 》—(21)

   〚  群れの監督者 − ➎ 〛

 

 

⬜ 群れの監督者について考えるにあたっては、

イザヤ書 32章 2節 を考慮する事は 必須と言えるでしょう。

 

 

まず、イザヤ 32:1 を見てみますと (新改訳)

 

「 見よ。一人 の王が義によって治め、首長たちは公正によって支配する。」

 

と このように 書かれてありますが。

 

 

この、‘’ 一人の王 ‘’ と言うのは イエス・キリスト のことです。

そして  ‘’ 首長 たち ‘’ とは 群れの監督者 のことを言っています。

 

 

ですから、その後に続く2節の内容は、群れの監督者にとっての、重要事項になります。

 

 

32章 2節 には、こうあります。

「 彼らは それぞれ、風を避ける 避け所、嵐を避ける 隠れ場のようになり、砂漠にある 水の流れ、乾ききった地にある、大きな岩の陰のようになる。」(新改訳)

 

 

つまり 彼ら、群れの監督者はこのようであるべき と言う事ですが。

 

 

この2節の内容を考えていく前に、

パレスチナの背景や気候についてある程度 知っておくなら、この例えの描写を理解する助けになるかも知れません。

 

 
 ··· 補足情報 です。 ···
パレスチナの気候は、実に多様性にとんでいます。
死海からヘルモン山 までの約160㌔は、標高が極端に異なるために、他の場所なら何千キロも離れた緯度の範囲(熱帯と北極の間ほどの範囲で分布するような 様々な 気候条件が作り出されています。
例えば、ヘルモン山の頂上は通常、一年の大半は雪で覆われていますが、死海の周辺まで来ると 温度計が50℃を指すこともあります。
地中海からの海風のおかげで、中央山系沿いの気候は温暖です。その地域で雪が降ることはあまりありません。
対象的なことの多い この土地では、降雨量も大変 変化に富んでおり、沿岸の年間降水量は約380㍉ですが、高地では その量の2倍にまでなります。
一方 ネゲブ、ヨルダン渓谷下流域、死海付近では、砂漠状態が広がっており、年間に降る雨の量は50ないし100㍉です。雨のほとんどは冬場の12月〜2月に降り、夏の6月〜10月の間は6〜7%に過ぎません。)
パレスチナの重要な資産の一つは豊富な露で、それも雨の降らない夏の期間の露です。雨のない夏の期間、ある地域では夜露がたくさん生じるので、草木は昼の暑い時間帯に失った水分を埋め合わせるのに十分な潤いを取り戻すことができます。
標高、気候、土壌が変化に富んでいるという事実は、この地域の植物相の多様性を説明する助けになります。ここでは、具体的な動植物の名前は挙げませんが、灼熱の砂漠に生育する植物もあれば、寒冷地を自生地とする植物や、岩の多い台地に生える植物もあり、暑い気候に適しているヤシ と、寒い気候に適している樫や松が、互いに それほど離れていない所で見られるということがあります。
また石の多い丘陵地では一年の大半は不毛で荒涼としています。
そして、この地域のとくに際立っている事といえば、地理的な理由による気温の差が著しいという点です。夜間はマイナス、昼間は灼熱というような そこまで極端なものではないですが、古代パレスチナは現在よりもさらに昼夜の気温の差が大きかったようです。(古代パレスチナの気候は、現在とは ある程度異なります。)

 ‥ ‥ ‥ ‥  ‥     ‥ ‥ ‥ ‥

 

‥‥ と、少し簡単に説明しましたが ‥‥。

 

さしずめ この 2節の聖句を考える際は、この地域の最も悪条件での状況をイメージし、思い巡らすようにと言うことです。

 

  ‥ ‥ ‥ ‥     ‥     ‥ ‥ ‥     ‥ ‥

 

 

それでは  2節の内容を 具体的に見ていきましょう。

    

 

この中には  4つの要素が 書かれてあります。

 

 

まず、1つ目は

「 彼らは それぞれ、風を避ける 避け所 」

 

とあります。

 

 

‘’ 風を避ける 避け所 ‘’

 

 

皆様は ここから どのようなイメージを抱かれるでしょうか。

 

 

まず、群れの監督者の ウェブ上のホーム(You Tubeであれば、ホーム・動画・概要欄。ブログであれば、ホーム・記事)等、その全体 は、

 

 

‘’ 風を避ける 避け所 ‘’ となっていなければ ならない、ということです。

 

 

これは どういう事でしょうか。

 

 

単に 風を避けるための壁のようなものと言うことでしょうか。

 

 

例えば、砂漠に居るところを 思い描いて見て下さい。

もちろん、ジープなどの車輌もありません。

 

今では 砂地でも岩や土の砂漠でも、通常は 髪の毛や顔が砂っぽくなるので、大抵は帽子やサングラスで防御する事が多いようですが、  

それほど  砂ぼこりが ···· と言うことです。

特に困るのは、飲食の時です。

 

いくら 飲み水や食料を持参していたとしても、風の強い日には、どうしても砂が目に入ってしまいますし、ましてや 食べ物を口にする事などもできません。

 

そのような時に、風を遮ってくれる場所があれば、一旦  落着いて、安心出来るのではないでしょうか。

 

群れの監督者のホーム そのものは、そのようなものでなくては ならないと言うことです。

 

もちろん 安心感だけではなく、さわやかさを与えるものであることも 必要です。

 

···これは 一例です。

 

 

 

次の要素は

「 嵐を避ける 隠れ場のようになり」(新改訳)。

 

(口語訳)では

「 暴風雨を逃れる所のようになり」

と訳されています。

 

次は  嵐、暴風雨  です。

 

先程の説明にもありましたが、特に 寒い時期のパレスチナの 夜は、極寒です。

その真夜中の暴風雨にさらされたら どうなるかと言うことです。

 

 

中々経験することはないかも知れませんが、

 

 

凍てつくような 暴風雨にさらされた時の自分を少し 想像してみるとよいかも知れません。

もちろん、雨具などは 持っていません。

 

 

 

群れの監督者はどのような存在であるべきか、について考えつつ 思い巡らしてみるならば、

 

 

 

極寒のそのような状況では 何が一番 必要とされるでしょうか。

 

 

まずは、熱、暖、温かさ です。

 

 

暖を取ることが出来るような場所に入る事が出来れば、そこに入った だけでも、体は温かくなれます。

 

 

 

では、次を見てみましょう。

 

「 砂漠にある水の流れ 」

です。

 

砂漠では 普通は、水などありません。

 

 

持参してきた水も とうとう尽きてしまい、もう既に 喉は からからに 乾いています。

 

 

そのような時に 水路を見つける事が出来たら、 しかも 綺麗な水が枯れずに湧き出ているところです。

 

 

もし そういう場所が 見つかったとしたら、

 

 

それまで どれほど疲れていたとしても 力が出て 急いで近づくことでしょう。

 

 

砂漠の真ん中で、水の流れ、つまり 水路を見つけることは、命を保たせることを 意味しています。

 

 

ここから 言える事は、群れの監督者の、

そのホームに入ったら、その中は、霊的な食物で 溢れていないと、と言うことです。

 

 

次の要素は、

「 乾き 切った 地にある、大きな岩の陰のようになる 」です。

 

 

例えば、真夏の荒野(砂漠)の真ん中にいたとします。

 

焼け付くような日差しが、体から水分を じわじわと 絞り取っていきます。

 

 

そのような場所では、休息を取る事も出来ません。

そんな所で うかつに休んでしまっては、体の水分が絞り取られて、命を失う恐れがあります。

 

 

しかし、そこで  もし、大きな日陰を作ってくれる 大岩を見つけることが出来たら、どうでしょうか。

 

 

ひとまず、死を免れる事が出来そうです。

 

 

灼熱の日差しを避けて、休息を取る事も出来ます。

 

 

この 2節に書かれてある 4つの要素については、黙想してみると まだまだ 出てくると思います。

 

 ❇  聖書の中では、‘’ 水 ‘’ は、霊的な命を保たせるものを 象徴的に表しています。
そして、悪魔の世 というのは、その  ‘’ 水 ‘’ を骨の髄まで絞り取ってきます。

 

 

実際の砂漠においては、何とか水(水路)を見つけたとしても、

 

• 砂嵐を避ける 避け所。

 

• 極寒の時間帯に暴風雨を避けられるような場所。

 

• また、真夏であれば、焼け付くような 炎熱から 身を守ってくれるような岩陰がなければ ····、

と言うことです。

 

 

これらの事から、この 4つの要素は 4拍子 全部 揃っていなければ ならないと 言えるでしょう。

 

 

この後は、皆様でも、よく思い巡らしてみて下さればと思います。

 

 

それで、この聖句に関しては、一旦ここまでにし、

 

 

更に、別の視点から考えて行きたいと思います。

 

群れの監督者は、14万4千人の魂について ヤハウェに言い開きを求められる、とありました。

その点をもう少し詳しく聖句から見ていきましょう。

 

ヘブル人への手紙 13章17節に 注目したいと思います。(口語訳)

     ⇩

「 あなたがたの 指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。

彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたの たましいのために、目をさましている。

彼らが嘆かないで、喜んで このことをするようにしなさい。

そうでないと、あなたがたの益にならない。」

 

 

まず、この聖句を考察するにあたって、

‘’ 指導者 ‘’ と言う ワード が出てきますが、

 

実は、ここで 指導者 と 訳されている事は 正しくありません。

 

新約聖書の中で、人間として指導者、教師、師、先生などの 称号を正当に 持ち得る ことの出来る方は、唯一 イエス・キリスト だけでした。

 

 

そうであるならば、この ヘブル人への手紙 13:17 にある 指導者 と言うのは どのように解釈すればよいのでしょうか。

 

この部分は、

信仰にある者たちを 正しく導き、時には教える為に 任命された者、つまり、群れの監督者のことです。

 

 

ですから、この ヘブル人への手紙 13:17 の「 指導者」と言う部分は「 群れの監督者 」と言う言葉に 置き換えて考える ことができます。

 
※ 群れの監督者は確かに重要なポジションではありますが、称号的な意味での指導者ではありません。ですから 勿論、指導者と呼ぶのもふさわしくありません。
※ これも補足情報ですが、イエス・キリストを指して 指導者とか教師、先生、師 などに訳されている語は、ギリシャ語の ‘’ カテーゲーテース ‘’ と言う語が、それぞれ 聖書によって、指導者とか先生、師 と訳されています。
ですが、この ヘブル人13:17の ‘’指導者‘’と訳されている部分は、カテーゲーテース は使われていません。
全く別の語が使われています。ですから、本来は この部分は ‘’指導者‘’ ではなく ‘’群れの監督者‘’ と置き換えて考えるならば、誤解を避けることが出来るでしょう。

 

それで、話を戻しますが、

 

 

群れの監督者が14万4千人級のだれかをつまずかせるような場合、

 

 

ヤハウェから、言い開きが 求められる、つまり、責任が問われます。

 

 

ですから 生半可な気持ちで 出来るものではない。

羊の命を見守る者として、真剣に携わらなければならないと言うことです。

 

 

そのことに対する、認識がなければ 群れの監督者はつとまらない、任務を全うする事は出来ないでしょう。

 

 

そして、 群れの監督者は14万4千人級をつまずかせるというこに対する言い開き、責任が問われる、それだけではなく、

 

 

さらに、14万4千人級の為に、ある犠牲を払うよう、ヤハウェから 求められています。

 

どのような犠牲が求められているのでしょうか。

 

 

その事については、また 次回 お話出来たらと思います。

 

🔹 iza2464 様のブログはこちらから。                                                      ⇩

https://iza2464.hatenablog.com/about

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−✳✳