From KSRG ✰「 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 」(18)

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《 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 》−(18)

   〚  群れの監督者 − ➋ 〛

 

 

⬜ 前回の記事から、群れの監督者 について 話して来ましたが、

 

 

群れの監督者 と言っても、世間一般に認識されているようなものとは全く違うと言うところは、ご理解 頂けたと 思います。

 

( ※ 前回の内容を、まだ お読み頂いて いない方は、そちらを(17) 先に読まれてから、今回の記事を お読みになられるよう お勧めします。)

 

 

それで  早速、‘’ 群れの監督者 ‘’ に関して、さらに続けて 解説していきたいと思います。

 

 

 ····これは、これ迄にも、何度か 開いてきた 聖書の言葉ですが、

 

 

コリント人への第一の手紙11章 1節 に

「 わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたも わたしにならう者になりなさい。」

 

と あるように、

 

群れの監督者 なる者は、キリストに倣っていた パウロに倣う者でなければ ならない と言うことです。

 

 

と 言うことは、

パウロが 自身の手紙の中で述べているヤハウェの基準。

それらに従っているかを、

ヤハウェ に 見て頂くと言うことです。

 

 

例えば、

▪ コロサイ人への手紙  3章

▪ エペソ人への手紙  4章・5章

▪ コリント人への第一の手紙  13章 1― 8 節

▪ガラテヤ人への手紙 5章 14― 26 節 などがあります。

 

( ※ これらは道徳に関する基準となる聖句です。

あくまでも一部に過ぎませんが、是非、聖書からお読み下さい。)

 

 

このような、聖書が述べている 道徳の基準に従うことは、当然 求められます。

 

従っているか、どうかを、判別されるのは ヤハウェです。

 

 

それで、今回は、

テモテへの第一の手紙 3章 1―7 節

の聖句から考えたいと思います。

     ⇩

 

テモテ(一)3:1―7

 

「『 もし 人が 監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである。』とは正しい言葉である。

さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。

彼はまた、信者になって間もないもので あってはならない。

そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。

さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。

そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなに かかるであろう。」(口語訳)

 

 

 

具体的に書かれてありますので、少しずつ見ていきましょう。

 

 

 

 ···· まず 1節 に

「 もし人が 監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。

 

 

とあります。

 

 

なぜ、そのように言えるのかというと、先ほども 述べたように、聖書で述べている 道徳律を、

 

 

仲間の14万4千人 級の前だけではなく、

 

 

模範を示しているところを

高次元側にも 見て頂き、また 悪魔側にも 見せることになるからです。

 

 

更に、今回 説明する事柄や、また、後日 説明する事柄に関しても。

 

 

それらの要求をすべて受け入れて。

第一にヤハウェに対して自分を捧げ。

そして 仲間の 14万4千人級の人たちと、その他の 仮 選別者 (これから 気付きが与えられるかも知れない方々も含め)の為に、自分を 喜んで 捧げようとしているからです。

 

 

では、続く 2節 を見ていきましょう。

 

 

「 監督は非難のない人」

とあります。

 

 

つまり、何かしらの理由で、仲間をつまずかせてしまうような人は、相応しくないと言うことです。

 

 

もちろん これは、

明らかに その人 自身に問題や原因がある ‘’ 非難 ‘’ の事であって、

いわれのない 非難については、また 別です。

 

 

そして、次に

  「 一人の妻の夫であり 」

と 書かれてあります。

 

ここで 言っている  ‘’ 一人の妻の夫 ‘’   と言うのは、

 

独身者には、資格が無いと言う意味ではなく、

 

 

これは、文字通り、妻を持つなら、一人だけ持つべきであると言うことです。

 

 

そして、「 自らを制し」

つまりこれは、 生活の様々な面において、自制や節制という特質を働かせて、節度をわきまえている人、ということです。

 

 

そして 次です。

「 慎み深く」

つまり、慎みや、謙遜 と言った特質です、

新共同訳では、「 分別があり」と 訳されています。

 

 

ある意味、分別のある人というのは、慎み深く、また謙遜でもあると言えますが。

それらの特質を示していることも、条件となります。

 

( ※ それらの特質を示すよう 意識している人であれば、自分に注意を引くなどして、自分を目立たせることなどは 控えるよう、動かされる事でしょう。)

 

 

また、「 礼儀正しく、または 秩序正しく、そして、旅人をもてなし」

 

新共同訳では、「 客を親切にもてなし」と訳されていますが、

 

 

ここで  言っている、‘’ 旅人‘’ または、 ‘’ 客をもてなす ‘’ という表現で伝えているのは知らない人を もてなす、と言う意味です。

 

 

実は、これは イエス・キリストが、よく 実践された、もてなしの仕方です。

 

 

自分が持っている、霊的な食物を、

自分の、近しい人 や 親しい人 だけではなく、見ず知らずの人にも、

 

真理を知らない方々に、知らせようとする、

と言うことです。

 

 

ですから、これは、

特に、文字通りの 食事 等によって もてなすと言うよりも、むしろ、霊的な意味で、他の人の益のために、骨を折ることが  関係しています。

 

 

その点で、ウェブ を利用するのは、非常に効果的と言えるかも知れません。

 

 

なぜなら  そのような方法であれば、どのような立場の人であっても、どこに住んでいる人にも、情報を届けることが出来るからです。

 

 

そして、続く部分には、

「 よく教えることができ 」

と あります。

 

 

これは、聖句だけを、示して終り というのではなく、

その意味を正しく悟れるよう 、教えることの出来る人であると言う事です。

 

 

 

3節では、「 酒を好まず 」と 書かれてありますが、

 

これは、お酒を飲んではならないと言う 意味でななく、あくまでも 酒を好まずです。

 

これに関しては、各自が自己分析してみる必要があるかも知れませんが。

 

例えば、お酒というものは、少量で有るならば、ある意味 薬膳ともなります。

 

でも、

例えば、酔いたいので とか、また、毎日いくらかでも飲まないと ····と、

 

 

身体の健康のために、また ほんのわずかに、と言うのではなく。

 

ある程度の量のお酒を毎日飲まずには 居られない。酔いたい ····。

 

そうなると、もうこれは、完全に依存症の範ちゅうに入っていると、考えられないでしょうか。

もちろん 身体にも良くありません。

 

 

ある人は、こう考えるかも知れません、自分は どれだけ飲んでも酔わないから 大丈夫。

 

そうでしょうか。

 

そのような人でも、いつか 身体に悪影響を及ぼすでしょうし、

 

自分では 酔っていると言う自覚が無くとも、

何かあった時、理性的に判断力を働かせたり、動く事が出来るでしょうか。

 

 

この 日本において、飲酒運転、及び酒気帯び運転 が 法律で禁止されているのはそういう事ですね。

 

 

そして 次に「乱暴でなく」これも、字の如くです。

 

そして、「 寛容であって、人と争わず」

 

( ※  乱暴、人と争うこと、

などは、実際に そのように行動しないとしても、

そうした、精神を助長してしまうような内容のもの(悪魔の世が提供している媒体)を、好んで取り入れているならどうでしょうか。

是非、この点をじっくり、黙想なさってください。)

 

 

次いで、「 金(かね)に淡白で 」 つまり、

お金を愛する者ではない。( 別の訳では、金銭に無欲で。金銭に執着せず。)

 

 

また、「 自分の家 (家族の者) を よく治め、謹厳(きんげん)である」。

 

子供がいる人であれば、「子供たちを従順な者に育てている人···。」

子供たちを、よく治めている人。

 

その理由は、5節に書かれてあります。

 

 

そして、6節をみると、

( ※ この部分は新共同訳)

「 監督は、信仰に入って間もない人ではいけません 」

 

と あります。

 

信仰に入って 間もない人は、監督(監督者)として 相応しくないと言うことです。

 

その理由も ここにはっきりと 書かれてあります。

 

端的に言うと、

高慢になる 危険があると言うことです。

 

 

♢ 信仰に入って間もないとは ♢

では、信仰に入って間もない、とは どの程度の期間を指すのでしょうか。

 
□ 関係するのは、知識と経験。

 

まず、重要なのは 期間なのでしょうか。

 

勿論、期間も関係 なくは無いでしょうが、

ただ、それよりも まず 必要となるのは聖書の知識(少なくとも、初歩の教理、教え)。

そして、その知識を当てはめた経験が、乏しいことです。

 

もう少し 具体的に言いますと  信仰に入って間もない と言う表現があてはまるのは。

 

○聖書で言う、初歩の教えを空で言う事が出来ない。

 

例えば、

死人の復活について。

永遠の命、また その裁き。

罪、魂、神の名前について。

人間 イエス・キリストの役割りについて。

 聖霊の意味。  御使いとは。悪魔とは。   悪霊とは。

古い契約と新しい契約との違い。 

神の国と神の義とを求める とは、どういうことか。   

信仰と信心の違い。

今、我々が 培うべき、新しい人格の培い方。

三位一体説の教えが間違いであることを説明出来るか どうか。

14万4千人とは。

主の晩餐の正しい祝い方。バプテスマの真の意義を正しく説明出来るか どうか。

天的希望者と地的希望者の希望や報いを言えること。

旧約聖書新約聖書をある程度、時系列順に把握しているか 。

そして、正しい祈りの仕方を説明出来ること 。

聖書の中で否とされている行為、また ヤハウェから見た重大な悪行について理解していること。

ヤハウェの属性である、愛、公正、知恵、力 について 説明 出来ること。

聖書のテーマを説明できること。

聖書で言っている、知識、理解、知恵、識別力、洞察力 を 説明出来ること。神からの霊的な武具を説明出来ること。···· など。

 

すべてではありませんが、これらは、聖書の初歩とも言える教え ですが、

これらを、その根拠となる聖句を添えて、空で説明できることが出来るかどうか。

 

そして、これらは  知識ですが、

その 知識を 知恵として活かした、ある程度の経験が必要であると言うことです。

 

             🔸🔸🔸🔸

 

◇ また、因みにですが、聖書の中で パウロが テモテについて 書いた言葉で、

 

『 あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。』

と言う、一文がありますが。

   

 

監督者には、神の言葉から 諭し、人を教えると言う、責任があります。

 

 

テモテの周りのヤハウェにお仕えしている 人々の多くは、自分(テモテ)よりも人生経験のある、親のような年齢の人々もいましたから、

ともすると、‘’ 若い ‘’ と言うだけで、‘’ あなたに 何が分かると言うの ‘’  と なりがちだったという事なんです。

 

特に当時のユダヤの体制では、そうだったと 思われます。

 

 

それで、この機会に、もう少し テモテについて お伝えしたいと思います。

 

 

テモテは、祖母と、母親から聖書の英才教育を受けており、

幼い頃から 聖書の教育を受けて、ずっと聖書に親しみ、 教えを当てはめるよう 訓練を受けてきました。

 

そして テモテのその頃の年齢は、歴史家の証言によると、既に、35歳以上 だったと言うことです。

 

ですから、少なくとも 30年以上は聖書の教育と訓練を受けてきた と言うことになります。

 

それでも、その 聖書歴30年以上の テモテでさえ、若さを見下げられることの無いように、

つまり、若いと言う理由から、軽んじられることのないようにと、パウロから様々な助言を受けたということです。      

 

 

ですから  総合的に考えてみると、

監督者に任命して頂く条件としては、

 

最低限、聖書の、少なくとも 初歩の教えを空で説明 出来る程度の知識があり。

それらを、ある程度当てはめた経験もあり。

また、出来れば 人生経験のない、つまり年齢的にも、若すぎる者ではないと 言う点も加わるかも知れません。

 

 

それで、

これらを書いた パウロ自身ですが、そのパウロは、それまで どのような経験をしてきたのか知るために、

 

是非、コリント人への第二の手紙11章 21〜30節 をお読み下さい。

 

   🔸🔸🔸🔸

 

 

・・・話を戻します。

 

 

 次いで、「 教会外の人々にもよく思われている人 」とありますので。

 

仲間以外の周囲の人からも ある程度、良い評判を得ている人である事、

 

◇ これは、少し 視野を広げて考えて見ると、

 

ウェブ上でも、注意を払うことが出来ます。

 

♢ 例えば、自分のホームを 他人が見た場合、その 印象はどうでしょうか。

 

更に、You Tube の動画であるならば、どのような人が、どの動画を視聴するか 分からないわけです。

 

例えば、

仮に5つのことを説明している動画であったとしても、客観的に他の人が見て、行き過ぎた内容になっていないか 等。

 

♢ 更に、何かの縁で一部の動画を視聴して、ヤハウェに導かれた人が いたとします。

しかし、その人が、別の動画を視聴して、もしも何かしらの相応しくない内容につまずき、これはだめだとなって 離れてしまったとしたら、

せっかく ヤハウェに導かれた人が、実際に自分のアップロードしている動画が原因で、離れてしまったとしたら ····、

 

そのことを、ヤハウェはどう思われるでしょうか。

 

動画の中には、何かの点で 誤解を招く内容のものなどはないでしょうか。

そうした点から、全体をよく見直し 整理し、ある動画に関しては、非公開設定にしておくのが良いことに気付かれるかも知れません。

 

同じことは、ブログについても言えることですが、

 

そのような面でも、他の人への配慮を示す必要があるでしょう。

 

 

その理由として、続く部分に こう書かれてあります。

 

 

‘’ そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう ‘’

 

そうです。

悪魔は、そのようなものでさえ、必ず 利用してくるということです。

 

 

···· 今回、群れの監督者に要求されている 責任(条件)その一部を お話 させて頂きましたが。

 

どうでしょうか。

 

 責任や条件と共に、あるものに関しては、その理由についても書かれてあります。

 

その理由についても、よく思い巡らしてみるなら、

 

 

恐らく 皆様も、

これらの責任や条件に、上からの知恵 が 反映されていることに気付かれることでしょう。

 

 

そして勿論、監督者として 相応しいか どうかを 判断し、任命されるのは ヤハウェです。

 

 

でも、これらは、まだ、序の口です。

( * 勿論、相応しくなければ、直ぐにその立場から外されることでしょう。)
*それで、これは 前回もお話したことですが、
どうしても 群れの監督者にならなければ、と考える必要はありませんので、
可能であれば メッセンジャー としての務めを果たす事ができれば、それでも十分ですので、
くり返しになりますが、お伝えしておきたいと思います。

 

それでは、次回も 引き続き、

群れの監督者について 解説できたらと思います。

 

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