From KSRG ✰ 「 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 」(19)

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《 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 》―(19)

  〚  群れの監督者 − ❸ 〛

 

⬜ 前々回から、群れの監督者について、順を追って 解説してきておりますが、

 

ただ、これは  前にも お話したことですけれど、

どうしても 監督者と聞くと、何か 上に立つ立場とか、偉い、と言ったイメージに取られるかも知れませんが、

 

誤解のないように くり返しますが、

 

ここで言う 監督者と言うのは、 仲間の14万4千人級の人々に仕える ただの僕のことです。

 

 

ですから 監督者と その他の14万4千人級の人々の間には、

今の 悪魔の世で見られるような意味での 上下関係は ありません。

 

  .    .    .   .

 

◇ ここから少し、補足情報に入ります。  _⇩_

 

西暦一世紀 において、

エスの弟子たちの中でも 柱となっていた人たち、

特に12使徒 と呼ばれる者たちが いたわけです。

 

また、その12使徒によって 直接 任命された者(監督者)たちもいました。

 

そして、

例えば パウロは、これまで 説明してきたように、ヤハウェイエス・キリストによって、直接 使徒 として任命された人物でしたが、

 

その パウロも、何人かの者を、教える者(監督者)として 任命しています。

 

その中でも、よく知られているのが、テモテです。

 

 

そして  その後、一世紀の弟子たちの間で、監督者として 任命された者が、また 誰かを任命し、と いうふうに、

 

いわゆる、監督者と呼ばれる者が増えていった と言うのも事実です。

 

 

それで、その結果は どうなっていったのでしょうか。

 

 

残念なことに、西暦64年頃には、当時の (イエスの体を表していたはずの) 教会が、分裂しはじめていました。

 

とりわけ コリントにおいては、それよりも  8年も前に、もう既に分裂が生じていたことが、

コリント人への第一の手紙 3章 4・5 節  から読み取れます。

     ⇩

「 すなわち、ある人は『 わたしはパウロに 』と言い、ほかの人は 『 わたしはアポロに 』と言っているようでは、

あなたがたは普通の人間ではないか。

アポロは、いったい、何者か。

また、パウロは何者か。

あなたがたを信仰に導いた人に過ぎない。

しかも それぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。」

 

 

要するに、

ある者は『 私はパウロにつく 』と、 また 別の者は、

『 私はアポロに 』

と言うふうに、この頃 もう既に コリントでは 分裂が生じていた ということなんですね。

 

それで、パウロ は、その 約 8年後、テモテに宛てた手紙の中で、こう書きました。

 

テモテへの第一の手紙  5章22節(前半)

「  軽々しく人に手をおいてはならない。」(口語訳)

 

新共同訳では、

「 性急にだれにでも手を置いてはなりません。」

 

西暦64年ごろ、パウロによって、このような助言が 既に 与えられていたと言うことです。

 

つまり、これはどういう事かと言いますと。

····その頃、

監督者として聖霊によって正式に任命されるのではなく、

当時の、既に監督者(長老)の立場にある者が、個人的な判断や、好みなどで どんどん 新しく監督者を任命していくと言う事が起きていました。

 

それで、事態を危惧した パウロは テモテに、そのような 人間的な判断や好みなどで 監督者を増やさないように助言した、と言う事でした。

 

 

···· そのような訳で、やがて、

皆様もご存知のように、

キリストの教えは  まがい物のキリスト教と化し、悪魔に乗っ取られるに及んだ と言うことです。

 

 

ここから  分かることは、ただの人間が 個人的な好みや、判断で、監督者を任命すべきではないと言うことです。

 

 

一世紀当時でさえ、そのような結果、まがい物のキリスト教を生み出す原因を作り出してしまいました。

 

 

※ 実際に聖書の記述の中にヒメナオ と、アレキサンデル と言う人物の名前が出て来ますが、この 2名は監督者でしたが、聖霊による任命では、ありませんでした。

そして 特にアレキサンデルの方は、パウロを大いに苦しめた事が書かれてあります。

※ テモテへの第一の手紙 1:19・20,    テモテへの第二の手紙 4:14をご参照下さい。

 

 

つまり 結論として、

監督者なる者は、ヤハウェイエス・キリストが、パウロを任命したような、

聖霊による任命でなければ ····と言うことです。

( テモテへの第二の手紙 1章 1節 )

 

 

そして、監督者として仕えるのは、このような目的からです。

この目的がはっきり理解 出来ている者でなければ、任命されることはありません。

     ⇩

テトスへの手紙 1章 1節

「 ···· わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた者たちの信仰を強め、また、信心にかなう真理の知識を彼らに得させるため ····。」      

       

         _⇧_

 

    .    .    .    .

 

□ では 今回、最後に もう一つ 、お話しします。

 

み子 イエス・キリストは、我々のために模範を残され、

ヤハウェも常に模範を示しておられます。

 

それで、監督者だけでなく、我々(14万4千人級)は 皆が、ヤハウェイエス・キリストに倣う必要があります。

 

✳ これは ヤハウェ が示しておられる模範の一つです。 

               ⬇

詩篇  113篇  5・6 節

「 だれが  私たちの神 主(ヤハウェ) のようであろうか。

主(ヤハウェ)は ···· 身を低くして  天と地をご覧になる 」 

     

 

✳ そして、これは イエス・キリストの示された模範です。

     ⬇

ピリピ人への手紙  2章 8節

「 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(口語訳)

 

 .  .  .  .    

 

ただ、次の聖句は、イエス・キリストが言われた言葉ですが、

 

エスは この事を話す前にあらかじめ12使徒を呼び寄せており、

 その時に話しかけていたのは、12使徒でした。

つまり監督者と言うことです。

 

ですから、ここの説明をする前に言っておきたい事として、

この聖句に関しては、14万4千人級 全員に要求されていることではなく、あくまでも 監督者に対するものである と言う目線からお読み頂ければと 思います。

( ※ 勿論、話された内容からも そのことは、理解できます。)

    

     ⇩

マタイによる福音書  20章 25 ― 28節 (新改訳)

 

それで  特に、28節ですが、

「 ····人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

 

とある、

 

この、「 自分の命を与える ために来たのと、同じように ··· 」

 

‘’ 命を与える ‘’ と言うことは、

 

監督者は自分のすべてを与える覚悟が出来ている、と言うことです。

 

自分のすべて、と言うことですから。

 

必要とあらば、いつでも 自分を差し出せる、

 

 

ヤハウェと仲間の14万4千人級の為に自分を差し出して 自分自身を用いる、覚悟が出来ていると言うことです。

 

 

では、そのような認識は、どのような面に 表れてくるでしょうか。

 

 

恐らく、そのような人であれば、いざと言う時には、 いつでも、自分を役立てることが出来るように、日頃から 健康面、時間の用い方など、自己管理に 努める事も意識されると思います。

 

 

また  さらに、

エスについては、

ローマ人への手紙 15章 3節で、

「 キリストも ご自分を喜ばせることは なさいませんでした。」(新改訳)

 

とあるように、

生涯を通して、自分というものを 完全に捨て切っていたと言うことです。

 

 

ですから、

その キリストに倣うということは、

 

特質に倣うというのは もちろんのこと、時間の用い方、祈りの仕方、生活の仕方に関して、

仲間の14万4千人に仕えるために、イエス・キリストそのものになり切る ほどにと言うことです。

 

イエス・キリストそのものになり切るといっても、少し 分かりにくいかも知れませんが、

 

監督(監督者)はイエス・キリストになる(キリストを着る)必要があると言う事です。

 

 

平たく言えば、

エスだったら、このような状況でどうされるだろうかと、考え そのように行動したり、

 

それは 同時に、今 この状況でヤハウェはどうするように望んでおられるのかと考えて行動することでもあるはずです。

 

そのように  監督者は、

キリストになり切り、イエス・キリストを着る為に、日々どのように生活し、何をするべきか、真剣に考え、努力し続けると言う事です。

 

でも、

果たして 不完全な人間にそのようなことが 出来るでしょうか。

 

 

パウロ

コリント人への第一の手紙11章 1節 で このように書いています。

        ⇩

「 わたしが、キリストにならう者であるように、あなたがたも わたしにならう者になりなさい。」

 

 

パウロがこのように言い切る事が出来たと言うことは、監督者には それが可能であると言う事です。

 

また、ヤハウェはそう出来るように助け、導き、力を与えられると仰っています。

 

  . . . . .

 

□ では 次に、

仲間のために命をなげうつ、と言う点について考えてみたいと思います。

 

これは、非常に重要な論点なんですが、

 

マタイ  20:28では、

「 人の子が ···自分の命を与えるために来たのと同じようにしなさい。」(新改訳)

と あります。

 

確かに イエス・キリストは文字通りの命を与えることにより、全世界の人々に益を得させることが、出来ました。

 

 

それで、

この聖句を見る限りでは、監督者たる者は、仲間の14万4千人級のために、イエスと同じように 自分の命をさしだす、つまり死ぬことも辞さない 覚悟が必要なのか?と、考えるかも知れません。

 

そのように、仲間のために 実際に自分の命をさし出すことが  最大の愛であると、解釈しているキリスト教もありますが、····

 

 

はたして、本当に聖書はそのように教えているのでしょうか。

もう少し その点を考えてみましょう。

 

 

確かに イエス・キリストはご自身の完全な命を、全人類の罪を贖うという目的で  差し出し、全ての人に、益を得させることができました。

 

 

では、我々はどうでしょうか。

我々もイエスに倣うためには、必要とあらば 誰かのために命をなげうって ····と言うことでしょうか。

 

どうでしょうか。

 

仮に、仲間の身代わりになって死んだとして、それで、本当にその仲間に益を得させることが出来るのでしょうか。

 

イエス・キリストと我々との決定的な違いは、我々は不完全であるという事です。さらにイエスは、全人類のために、ご自身の完全な命を犠牲にすると言う使命を持って、この地に来られたと言う事です。

 

 

ですから、

不完全な人間が  仲間の為に命を犠牲にしたとしても、キリストと同じことをしている事にはならず、

 

そのような事をしても、自分の命を無駄にしている事に他ならないんです。

 

 

当然の事として、ヤハウェもそのようなことは望んでおられません。

 

 

要するに  ここは、文字通りの命を差し出す、身代わりに死ぬことを言っているのではないんです。

 

 

それで 繰り返しますが、仲間の為に、自分の命を断つことを美徳と解釈し、勧めている キリスト教はカルトです。

 

では、

マタイ20:28 にある、「 人の子(イエス・キリスト)が ····したのと同じようにしなさい。」

 

とある、これは どのような意味でしょうか。

 

 

結論から、述べるならば、

 

‘’ ヤハウェのため、また 仲間の14万4千人級のため、そして その他の仮選別者の為に 自分の命を 出来るかぎり、価値ある仕方で用いる ‘’

 

この答えに、到達できるはずです。

 

※ 捨てる と言う語には、文字通りの放棄、手放す、以外にも、掛け替えのないものを犠牲にしても構わないほどの意気込みで何かを行う時などに、‘’ 犠牲にする ‘’ と言う意味において、捨てる覚悟、などと 使われる事があります。

 

それで、我々の場合、少しでもイエス・キリストに倣いたいのであれば、

自分の命を仲間の為に 身代わりになるなどして 文字通り 捨てる  のではなく、

また、無駄に自分の命を終わらせる事なく。

 

ヤハウェのため、また、仲間の益のために、生き恥をさらしてでも、また どれほど苦しい思いをしようとも、最後まで生き続け 自分の命を最大限活用することで、倣うことが出来るということ。

 

これが、この部分の正しい解釈です。

 

 

ただ、ここで もう一つ疑問に思われるかも知れません。

 

一世紀当時のイエス・キリストの弟子たちは、確か 殉教の死を遂げたのではなかったか??

その点はどうなのか。

 

確かにそうです。

 

ただ、それらの弟子たちの死というのは、仲間のために身代わりになって、というのではく、

 

あくまでも、ヤハウェのご意思を行ったが故に、捕まったり、処刑されたりした  というものでした。

 

誰一人、進んで誰かの身代わりになることを望んで 死んだ者などはいなかったという事です。

 

そこは、誤解のないように、という事です。

 

 

それで、大切なところですので、繰り返しますが、

 

少しでも、イエス・キリストに倣いたいのであれば、自分の命を放棄することなく、どれほど苦しい思いをしようと、生き恥をさらそうとも、最後まで生き続けて、ヤハウェの御旨を行うため、仲間の益のために 自分の命を最大限活用する ということでした。

 

 

 

今回の内容は、ここまでとなります。

 

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