From KSRG ✰「 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 」(14)

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《 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 》—(14)

 

 

⬜ 今回は、パウロについての考察に入っていく前に、

 

 

イエス・キリストが 話された  次の言葉について、まず 考察したいと 思います。

 

 

ルカによる福音書 10章 22節 の  この言葉です。

 
(共同訳)

「 すべてのことは、父からわたしに任せられています。

父のほかに、子がどういう者であるかを 知る者は なく、

父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」

 

 

この、

 

 「 ··· 子がどういう者であるかを ····」 

「 ··· 父がどういう方であるかを ···」

 

まず、この部分を原語から解説すると、字義的には、

 

「 ··· 子がどのような者であるかを ···」

「 ··· 父がどのような方であるかを ···」

 

 

と、このようになります。

 

 

そして、この聖句を見るかぎり、

ヤハウェ に関しては、子 と 子が選んだ者 であれば、(ヤハウェのことを)知ることは出来るということです。

 

( このことは 一世紀においても、今日(こんにち)においても 同じで、子と 子が選んだ者は、ヤハウェのことを知ることが出来るということです。)

 

 

しかし、子が どのような者であるかに関しては、ヤハウェ以外は誰も知らないということになります。

 

 

 

···· ここで、イエスは何を言わんとしていたのでしょうか。

 

まず、1つは イエスはすべてのことを父から任せられている、(または、渡されている)ということ。

 

そして、次の、「父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく。」

 

という これは、子(イエス)がどのような者であるかについて 十分に理解しているのは、父だけであると言うことです。

 

 

そして さらに、「父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、誰もいません。」

 

( これは、わたし(イエス)を通してでなければ、誰も 父のみもとに行くことは出来ないと言われた。ヨハネ福音書14:6 の聖句とも調和しています。)

 

 

但し、

子(イエス)が選んだ者が 父を知ることが 出来るといっても、

 

 

当然のことですが、

それは、父を知る道が開かれて、入口に立った 程度という意味であって、その知識や理解は まだまだ 微々たるもの、まだ その外縁にも到達 出来ていないと言えます。

 

 

それでも、父ヤハウェが どのような方であるかを 知っていく、また 天の父ヤハウェ との個人的な関係を培っていく、入口に立てたことが、どれほど特権であるかということです。

 

 

そして、その入口が イエス・キリスト だったと言うことです。

 

 

ですから、

イエス・キリストは、続く聖句で 次のように言われた わけです。

 

23・24 節

「 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。

『 あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。

言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが 聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。』」

 

 

そのように、一世紀の弟子たちは、直(じか)に キリストを見て、キリストから 教えを受ける という、類まれなる 特権を得ることができたわけです。

 

 

それでも、その弟子たちのほとんどが、子である 神イエスのことをどれほど知っていたのでしょうか。

 

 

つまり、イエスがどのような方であるか、どこまで認識 できていたのか と言うことです。

 

むしろ、ほとんど分かっていなかったので、イエスは 次のように言われました。

 

 

ヨハネによる福音書 の   まず、14章 26節 

 

「 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また わたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。」 

 

 

そして さらに、15章 26節 で

 

「 わたしが 父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについて あかしをするであろう。」(口語訳)

 

 

ですから、イエス については、父しか知らないというのは、まさしく その通りで。

 

ヨハネ15:26  にあったように、

聖霊が、イエスについて知らない部分をさらに 補ってくれるということでした。

 

 

 

実は、当時の弟子の中でも イエスと最も親密であった者の一人 、ヨハネですが、

自身の書いた福音書の最後で このように書いています。

 

ヨハネによる福音書 21章 25節

「 イエスのなさったことは、このほかに まだ数多くある。

もし いちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」

 

( ※ これは、ヨハネ自身が、見聞きし、知っていることだけではなく、気づかなかった事も含め、もし それら全てを書いていくならば、ということです。)

 

 

つまり そこには、

ヨハネが、イエスという人物の奥深さ。

その人物像が言葉では言い尽くせない程の 奥深さゆえに、強く感銘を受けていたことを読み取ることができます。

 

 

それで、12使徒も含めた、当時の弟子たち。

その中には、ペテロ、ヨハネヤコブ、また その他の柱 と呼ばれていた者たち、年長者もいましたが。

 

 

イエス・キリストが どのような方であるのか、

実は、最も 理解していたのは 使徒パウロでした。

 

 

パウロ は 自分の手紙の中の幾つかの箇所で、そのことを明らかにしています。 

 

 

 

例えば、これは 前回も 挙げた聖句ですが、

フィリピの信徒への手紙 3 章 8 節で次のように書いています。

 

「 そればかりか、わたしの主 キリスト・イエスを知ることの あまりのすばらしさに、今では 他の一切を損失とみています。····」共同訳

 

口語訳 では、

「 ···· わたしの主 キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている····」

 

新改訳 では。

「 私の主である キリスト・イエスを知っていることの すばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。···」

 

・  ··· わたしの主 キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに ···。

 

・  ··· わたしの主 キリスト・イエスを知る 知識の絶対な価値のゆえに ···。

  

・  ··· 私の主である キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに ···。

 

 

どの訳し方も、興味深いので、ここに書き出してみましたが。

 

共同訳の 、イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ、

口語訳の、イエス・キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに····。

と言う このような表現から、イエス・キリストについての知識を知ることの価値をどれほど高く評価しているかが伝わりますが、

 

新改訳では、キリスト・イエスを知っていることの すばらしさ、と言っています。

 

イエス・キリストを知っていると言っているんです。

 

 

エスの他の弟子たちの中で、ここまで 言い切ることの出来た者は、パウロ以外にはいませんでしたし、

 

実際に、パウロイエス・キリストに関する知識は、他の弟子たちと比べると、飛び抜けていました。

 

 

 

では、

もう一つ  別の例 から考えてみましょう。

 

例えば、パウロは、

イザヤ書 40章 13・14 節 の

「 だれが、主(ヤハウェ)の霊を導き、その相談役となって主(ヤハウェ)を教たか。

主(ヤハウェ)は だれと相談して 悟りを得たか。

だれが 主(ヤハウェ)に公義の道を教え、知識を教え、悟りの道を示したか。」

 

という この部分を説明するにあたり。

 

コリント人への第一の手紙 2章で説明していますが、その16節でこのように述べています。

 

「 だれが 主(ヤハウェ)の思いを知って、彼を教えることができようか 」  とイザヤ書を引用して 述べた後、

「 しかし、わたしたちは キリストの思いを持っている。」

と書いています。

 

( ここで述べている、キリストの思い とは、キリストの思考、感情、気持ち、願い、願望、期待、心情、動機づけ など、それら全てを含んでいます。)

 

 

16節 後半で、パウロが、

「 しかし、わたしたちは キリストの思いを持っている。」

 

と書いた、この言葉には···、

 

まず パウロは、皆を代表して、自分はキリストと同じ思いを持っていると言えるほどイエスのことを理解していたということです。

 

先ほども、述べましたが、当時の弟子たちの中でも パウロはイエスのことを知ると言う点で 突出しており、他の12使徒には 比べものにならないくらい、イエスのことを理解していました。

 

 

ただ、

「 わたしたちは キリストの思いを持っている」

 

‘’わたしたちは··· ‘’ と 述べることで、仲間の14万4千人級を励ましていたと言うことです。

 

 

ですから  パウロは、

コリント人への第一の手紙 11章 1節 で、次のように、言い切ることが、出来たわけです。

 

「 わたしが キリストにならう者であるように、あなたがたも わたしに ならう者になりなさい。」

 

 

 ···· ということで、

この回は この辺で終えたいと思います 。

 

 

では、次回、イエス・キリストパウロとの関係性も含め、さらに 深掘り考察をして行き、

キーマン パウロについて考えて行きたいと思います。

 

  .  .  .  .

 

* 以下は補足説明です。

 

 

🟤  •  ヨハネによる福音書 6:44 

父が引き寄せて下さらなければ、誰もわたし(イエス)のもとに 来ることは出来ない。

そして、

•  ヨハネによる福音書 14:6 の わたし(イエス)を通してでなければ、だれも父のみもとに行くことは出来ない。

 

 

これらの聖句が教えていることは    

 

つまり、イエスのもとに来て、正しい知識を得るには、まず、ヤハウェに引き寄せてもらえるような人であること。

 

そして、イエスを通して、でなければ 父ヤハウェのことを正しく知ることも、ヤハウェに近づくことも出来ない。

この循環のどちらか片方でも 崩れては、イエスに来ることも、ヤハウェを知ることも出来ない ということが理解 できます。

 

             ◇◇◇◇

 

❈  この シリーズでは 特に パウロが 特異な存在で、他のキリストの弟子たちと比べ 別格であるということについて 述べていますが、

決して パウロを特別 高める目的のものではありません。

これらの情報は、それらを通して、唯一真(まこと)の神ヤハウェに 賛美と栄光を帰する為のものです。

繰り返しますが、個人の人間を高めるものではありません。

高められるべきは、み子 キリスト・イエスを通し、ヤハウェ のみ ということですので、誤解の無いよう、 ご理解頂けたらと思います。

 

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▫▫お知らせ ▫▫

 

○ 数日前に、未だ公開の予定ではなかった、 No.15 を、誤作動によって、少しの間 公開にしてしまいました件に関しまして。

既に、(15)の内容を読まれた、もしくは、データを保存されている方々におかれましては、誠に申しわけありませんが、  

後日 改めて更新される(15)の内容は、少し内容が調整されていますので、

誠に恐縮ではありますが、最新のものを(14)の後に、お読み頂き、また、最新のものをデータ として保存されるようお願いします。

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