From KSRG ✰「マタイによる福音書 25章 31節 〜 の 考察 」(2)

〈 マタイによる福音書 25章31節〜の考察 (2)〉

■ では 早速、マタイによる福音書 25章の 前回からの 続きの考察をしていきたいと思います。


まず 始めに、マタイによる福音書 25章 31節 の

「 人の子が 栄光の中に すべてのみ使いたちを従えて来るとき、彼は その栄光の座につくであろう。」―口語訳


この部分なんですが…、

これは、

み使いたちが、ハルマゲドンの決戦の時に、‘’ 諸国民 と戦う‘’ ということを言っている聖句ではありません。


あくまでも、み使いたちは ここで言っている “人の子 ‘’ と 共に 諸国民の “ 選別に関わる ’’という意味です。


それで
その時に、どういう人たちが 選別されるのか、つまり 羊 として見て頂けるのか、については 前回(1)の記事で、詳しく説明したと思います。


で、今回は
マタイによる福音書 25章35節 の

「 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、」

と言う、この部分について考えていきたいと思います。



エスにとっての、食物とは何だったのでしょうか。


また イエスにとって 飢えを満たし、渇きを癒やす とは どういう意味だったのでしょうか。



それを知る 手掛かりは
ヨハネによる福音書 4章34節です。


ここで イエスは はっきりと こう述べています。


「 わたしの食物というのは、わたしをつかわされた方 の みこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」


つまり、
ヤハウェの み心、ご意思、み旨、を 行うこと こそ イエス自身にとっての 食物だと言われたわけです。


これは どういう意味でしょうか。

エスは ここで、とても重要な事(真理)を教えています。


食物(食欲)というのは、人間の基本的欲求です、三大欲求の一つとも言われています。
その、食物に例えることで



エスにとって、ヤハウェのご意思、み旨を 行うことが、最も重要な関心事であると言うこと。
ヤハウェのご意思を行なうことから 得られる、喜びや、満足感、達成感、そのような 満たされた感 が関係しています。)


そして さらに、

実際に人間は、食事を摂らないと死んでしまうわけです。

ですから、
そのような食事(食物)に例えることにより、

エスにとって、ヤハウェ の みこころを 行なうことが 生きる上で どれほど 重要な位置を占めているのか、と言うことに注意を引き、

エスの弟子たちは、(ひいては 全ての人間が)本来は そうであるべきことを教えていたわけです。


ヤハウェの み旨、ご意思 を行なうことを 食物に例えた ことには そのような 意味がありました。


まずは、このことを 押さえておいて頂いて···。



それでは、
ヤハウェの みこころ、ご意思、み旨 とは 何なのでしょうか。

その事を考えていきましょう。


テモテへの第一の手紙 2 章 4 節
には 次のように 書かれてあります。

「 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。」


ヤハウェ は 愛の神 です。

ヤハウェは)
人間の幸福を願って
一人でも多くの人が救われること、
出来れば、 全ての人が改心して救われること、 
そのために真理を悟るに至ることを 望んでおられる。

それが ヤハウェのご意思と言うことです。

繰り返しますが、ヤハウェが そのことを望んでおられると言うことです。

さらに イエス・キリスト ご自身
ヨハネによる福音書18章37節 の 中ほどからですが、

「 わたしは 真理について あかしをするために生まれ、また、そのために この世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける。」

と 言われました。

ここで 言っている ‘’真理‘’ と言うのは
   ⇩
ヤハウェ は 一人でも 多くの人々を救いたいと願っておられます。そのための救済策。
もっと具体的に言うと、
キリストを仲介とした、天の父 ヤハウェと和解するための方法。

これが ここで言っている''真理''
と言うことです。


また イエスは、
ヨハネによる福音書 17章26節 で 次のようにも述べておられます。   ⇩

「 わたしは み名(み父 ヤハウェ のみ名)を 彼らに 知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

〖 ※ ここで、はっきりと述べておられます。「 わたしに対するあなた(ヤハウェ)の愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるため···。」と、

これは つまり、イエスに対するのと 同じ ヤハウェの愛が、彼らの内に無ければ、イエスからの愛は とうてい 期待出来ないということです。〗


エスヤハウェ の み旨どおり、人々が真理(※ 先ほど説明したもの)を悟れるよう
真理について証 するために、 この世につかわされ、

ご自分に与えられた使命 を果たすこと、全うすることが、自分にとっての食物だと、そのために生まれてきた、とも言われました。


それでは、
メッセンジャーたちにとってはどうなんでしょうか、

もちろん メッセンジャーも同じです。

メッセンジャーは、
自分の発するメッセージを 誰かが 聞いて 受け入れてくれ たときに 確かに 嬉しく感じるかもしれません。


ただ、イエスがそうであったように、メッセンジャーの ‘’ 飢え‘’ ‘’渇き‘’を満たすことは、どれほどの人々が自分の発するメッセージを受け入れてくれたか ということには依存していないんです。


ベースになっているのは、ヤハウェが引き寄せる人々を救いたい、そのために自分に出来ることを行ないたい、という 心の状態で、


ヤハウェのみ旨を行なうことで、ヤハウェを喜ばせることが出来ているという自覚によって、飢え、渇きが 癒されるわけです。


メッセンジャーの発するメッセージを受け入れた人からすれば、受け入れた結果として、ヤハウェに導かれ 益を得ることは できるかも知れませんが、


誰がメッセージを聞いて、実際にヤハウェと繋がることができて、それらの方が 最後までヤハウェに付き、
そして 最終的に救われるのかどうか、


メッセンジャーには分からないんです。


メッセンジャーの努めは、レールを敷いて、 道を作るだけなんですね。



·····今、メッセンジャーの 飢え、渇きが どのように 癒やされるのかについて 話していますが

そのことは、
ローマ人への手紙 14章17 · 18 節の言葉からも 分かります。
    ⇩

神の国 は ····義と、平和と、聖霊における喜びとである。」


まず、メッセンジャーは、神(ヤハウェ)の義を実践している事を自覚できていることに喜びを感じます。


※ 興味深いことに、
この ‘’義‘’と言う 言葉 の原語には「公平」また「公正」と言う一面を含んでいます。


ですから、
ある意味、メッセンジャーの好き 嫌いや、苦手意識など( 不完全な人間のその時々の判断 など)に影響されることなく、メッセージを発することが出来るという点では、ウェブ上での発信というのは、公平、公正の点でも 理にかなっていると言えるかも知れません。


次に、
「 平和における喜び 」 です。
そのように、ヤハウェ の み旨を行なっていることで、ヤハウェとの平和を享受している事を喜べること。


そして、
最後の「 聖霊における喜び 」

これは、
自分に与えられている聖霊も共に 喜んでくれている と言うことです。


どうでしょうか、
メッセンジャーが自分の使命を果たす時に得ることのできる、喜び、満足感、達成感、つまり、それが、飢え や 渇きを癒すということですが、
どれも自分が伝えた相手の反応には依存していないと言うことです。


今回は
ヨハネによる福音書 4:34 で イエスが言われた ‘’ わたしの食物とは ‘’ これが キーワード でした。


ちなみに 言いますと、世界中で最も多い宗教は キリスト教なんですね。
でも、残念ながら 彼らは、イエスが言っている「 わたし(イエス)をつかわされた方 」である ヤハウェ の みこころを 行ない、その御業( みわざ )を なし遂げるよう努力しているでしょうか。

····と言うことは、 いったい 何をやっているんでしょう。

まぁをそのことは さて置いて。


エスはさらに
ヨハネによる福音書 14章12節で 次のようにも述べられました。

「 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、また わたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きい わざをするであろう。」


この聖句の言わんとしていることは、

イエス・キリストが行なわれたのは、ユダヤ地方 限定の布教活動でしたが、

今、 人々をより分ける業は全世界ということなんです。



····今回は、特にイエスが言われた‘’食物‘’ の 真意について 考察してきましたが。

エスの食物とは、ご自身を遣わされた方である ヤハウェのみ旨、ご意思を行なうこと とありました。

そして、今回 考えたように、今日におけるメッセンジャーにとっても同様です。


つまり、ヤハウェから義を教えられ( 真の救済策も含む )、 そして、今 この時期に、全人類にヤハウェが、何を望んでおられるのか、を悟り、そのお気持ちに、 貢献出来ているという、( それが、どれほど小さなことでも )最高度の喜びを味わい。

実際に、それによって、ヤハウェとの、平和な関係を享受し、また自分に与え、られた聖霊も、共に喜んでいるわけです。

だれが、受け入れる、受け入れないか と言う事にとらわれずにです。

でも、受け入れた人々は イエスが述べた、次の言葉によって、最終的に羊と見て頂ける わけです。

これが
マタイ 25:40 でイエスが言われた結論です。

「 わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである 。」



○ 今回の記事を読まれた キリスト教の指導者様、または その信者様 の中で、これらの記事の中で 聖書の言葉から確認 出来た にもかかわらず、崇拝の対象者をヤハウェに向けられる方がはたして、どれほどおられるでしょうか。
恐らくは 残念ですが、ほとんどの方が ますます心をかたくなにし、崇拝の対象をヤハウェに正されることはしないでしょう。


ヨハネによる福音書 6章39節

「 わたしをつかわされたかた(ヤハウェ)の みこころは、わたしに与えて下さった者(あくまでも、ヤハウェがイエスに与えて下さった者です。)を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。」

天の父 ヤハウェのことをないがしろにしている、キリスト教界に救いはあるでしょうか。

※ 今回の記事も拡散希望とさせて頂きます。
どのような形でも構いません。


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◾今回の このシリーズの続きの考察は、可能であれば 、機会があれば 行なえたら と思います。
と言いますのは、
大きな苦難までに残された時間を考え、より優先的に 皆さまに お伝えすべき 内容から話して行きたいと考えています。


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