From KSRG ✰《本日のバイブルメッセージ》(8)No.4

《本日のバイブルメッセージ》


❑ 今回は、エレミヤ書 17章10節の深掘り考察をしていきたいと思います。


それで、この10節に関しては、新改訳 聖書の訳が、原語の意味に最も近いので。


まず、新改訳 聖書から その聖句を見てみたいと思います。


「 わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行ないの実にしたがって報いる。」


ここで
‘’ わたし主が心を探り、心の奥を試し ‘’ とあります。
新共同訳でも、この部分が、 「 はらわたを究めるのは 」となっています。


この、‘’心の奥‘’とか ‘’ はらわた ‘’ と訳されている ヘブライ語 の  ‘’ ケラーヨート ‘’という語なんですが、
この語は、比喩的な意味で使われる場合には、人格の最も奥深い 側面を指して用いられます。


その他、旧約聖書で、同じ語が、動物などの 臓器 として訳されることもあります。


ヤハウェ は、モーセの律法契約のもとで、罪科の捧げ物を捧げる際に、その動物の腎臓(ケラーヨート)を 共に 祭壇の上で火で焼くように 指示されました。


このような 捧げ物の取決めには 重要な意味がありました。


動物の腎臓は 腎(むらと) つまり人の心の最も奥深いところを予表するものでした。


ですから、動物のそのような部分を捧げる事には、罪科の捧げ物を行なう際に むらと(その人の心の最も奥深いところ)を差し出すように、という意味が込められていたと言うことです。


形だけの捧げ物ではなく、罪に関し、心の最も深いところも共にヤハウェに差し出すように と言う意味がありました。
レビ記 7章 4・5節を ご参照下さい。)


つまり、このヘブライ語の ‘’ケラーヨート ‘’ と言う語は、
繰り返しになりますが、腎臓 と訳されたり、むらと、はらわた、そして 比喩的に用いられる場合は、その人の人格の最も奥深い側面を指して用いられることがあります。


ということで、この エレミヤ書 17:10 は新改訳の訳し方が ある意味 最もふさわしい訳と言えるかもしれません。
( 新改訳のエレミヤ書 11:20をご参照下さい。)


· · · · · · · · · ·


それで、
エレミヤ書 17:10 の考察の、ここからが本論ですが、


ヤハウェは その人さえ望むなら、その人の 心 のみならず、むらと、つまり、その人の心の さらに深いところまで 精錬することが おできになります。




ダビデ王は、詩編 26編 2節 で次のように述べています。


詩編 26:2 (新改訳)
「 主よ 私を調べ 試みて下さい。
私の心の深みまで精錬して下さい。」



このように書いた ダビデ王 ですが、

ダビデ王は 確かに 重大な悪行を犯しました。



しかし、改心した後のダビデ王は、神の見地からすると どうだったのか、ということです。


また ダビデは、重大な悪行を犯してしまった 自分の その罪を拭い去ってくださった ヤハウェに対し、 言い尽くすことの出来ない感謝を抱きました。


····それで、
詩編 26:2 にある このような祈りをした ということなんです。



このことを踏まえ、


では、我々は どうでしょうか。


特に 14万4千人として 天に召されている者たちの 心、また その奥深いところ は、どのような状態でなければならないか、ということです。



ダニエル書 12章 10節 には
次のように書かれてあります。
(口語訳)です。
     ⇩

「 多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。
しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。」



特に この聖句の前半の


「 多くの者が、自分を清め、自分を白くし、かつ練られる」

とあるように、


このような状態であるように、
····今こそ、そのようにすべき、と言うことですね。

ヨハネの黙示録 19:7・8 をご参照ください。)



では、
もう一度、先ほどの 詩編ダビデの言葉にもどりたいと思いますが、


この 詩編の部分は、決して ダビデだけの、つまりダビデの個人的な改心の一表現と、捉えるべきものでは ありません。


····この記述が なぜ、聖書の中に収められているのでしょうか。


それは、我々にとって、非常に重要で、必要不可欠な内容だからです。


···· 特に 14万4千人 として、召されている者たちは、


自分の心の 最も奥深いところを、ヤハウェに 精錬して頂く必要があります。


そのようにすれば、詩編の16:7で、

「 私は ほめたたえます。
助言を下さる主を。
実に 夜ごとに 内なる思いが私を教えます。」(新改訳)


と 書かれてある この 同じ境地になり、自分の心の深いところが、ヤハウェから見て ますます 良いものへと変化してゆく ということです。


そうなれば、いっそう そのことを ヤハウェに感謝することでしょう、そのように良い循環が生まれるわけです。


ですから、これは 決して 強制されて すべきものではありません。


ヤハウェに そのようにして頂きたい という、心からの願いが大切ということです。




例えば、エレミヤ書 12章 2節にはこのように書かれてあります。

(口語訳)
「 あなたが彼らを植えられたので、彼らは 根づき、育って、実を結びます。
彼らは 口ではあなたに近づきますが、心はあなたから遠ざかっています。」

(新共同訳)
「 あなたが彼らを植えられたので彼らは根を張り 育って実を結んでいます。
口先ではあなたに近く 腹ではあなたから 遠いのです。」



つまりこれは、ヤハウェが せっかく植えたのに、結果、悪い実を結ぶようになった者たちのことを言っています。

····このようには なりたくない、と言うことですね。


こうならない為には、どうすれば良いのでしょうか。


先ほどの 詩編 26:2 に基づいた心からの祈り、プレイヤーを行うことです。


『 ····主よ 私を調べ、試みてください。私の心の深みまで精錬してください。』


純粋にそのように していくならば、その人は ヤハウェのみ前で、神の義の基準に対して、いっそう敏感になって、


神のみ前で 正しい者となることが出来る、ということです。


· · · · · · · ·

今から話すのは、一例です、分かりやすいものを例にあげてみます。


例えば、
ヤハウェから見て 何かしらの、忌わしいと思われる、習慣があるとします。


でも、本気で その習慣を断切る 努力をせずに、詩編 26:2 のようなプレイヤーができるでしょうか。



例えば、聖書の中で、捨て去ってしまうようにと 言われているものとして、


コロサイ人への手紙 3:5 ― 8
などを見ていくと、


不品行(淫らな行ない)、汚れ、情欲、悪欲、貪欲、偶像崇拝
そして、怒り、憤り、悪意、ののしり、または そしり、口から出る恥ずべき言葉 など あげられています。
( これは 一部です。)



いわば、これらは ヤハウェから見て 忌まわしい 事柄です。


でも 『 自分の心の奥深いところ、そこを 精錬してください』と祈りつつも、先ほどのような事柄を改善するために 努力をしないなら、どうでしょうか。


····ということですよね。



ただし、その人が 本当に望むならば、自分の心の奥深いところを精錬して頂くことは 出来るということです。


ダビデは、その模範を残されたわけです。



ただ、このことも 重要なこととして、その際には、ヤハウェの霊の力に頼ることができます、
むしろ、これは 必須です。
詩編 51:10 をご参照ください。)



ここまでの情報は、
続く 後半の内容に深く関係しているものです。



イエス・キリストは、次のように言われました。


使徒行伝 1:7
(この部分は、口語訳が原語の意味に近い訳し方をしています。)
     ⇩
「 彼らに言われた、『時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなた方の知る限りではない···』」

ここに 「時期や場合は···」とあります。
このように、‘’ 時‘’ と ‘’場合‘’が 同時に使われる場合、
   

※ 物事の指針、動向 などが、状況によって変わることを示唆しています。


ですから、‘’ 大きな苦難に入る時をヤハウェが定めておられる‘’ というのは、最初から、つまり この日に、何年の〇月〇日に、と 日付けか 決まっているわけではなく。

また、行動される日を、この日、あるいは、この日、または、この日、というふうに、数少ない、幾つかの予定日に設定しているわけでもありません。

ただ、予定日は ある程度、定めておられます。


それで、例えば です、
仮に、本日が大きな苦難に突入すると ヤハウェが 定めておられる 数ある予定日の1つ だったとします。


ヤハウェは、それぞれの人の強い所も、弱い所も すべて ご存知なんですね、

それで、Aさんは ヤハウェが望まれる所まで努力していたとします。

そして Bさんも、そのように努力して 益々 練られているとします。

でも Cさんは ヤハウェが、ここまで成長してほしいと 願っておられるところまで、到達していなかったとします。

では、ヤハウェは 本日 予定通り大きな苦難に入るようにするでしょうか。

もしかすると、次の予定日の時まで待たれるかもしれません。



つまり、ペテロの第一の手紙 3章 9節 は、

ヤハウェは、私に対して 霊的に成長するよう長く忍耐しておられると 言うふうに、各人が自分に当てはめて 考えなけれはならない 聖句なんです。



但し、ヤハウェは、その日をどこまでも 伸ばし続けられる訳ではありまはせん。


ヤハウェの定められた、最後の日が来れば、その時には 実行に移されることでしょう。


ただ、その時には、次のこの聖句の言葉が、関係してきます。


コリント人への第一の手紙 3:15 後半に

「 ····しかし 彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。」

と言うことなんです。


ここまで 話してきたら、恐らく 察する方も いらっしゃると思いますが、

ここで 皆さん 、よく 自問していただきたいのですが、


あくまでも これは 自問です。

大きな苦難に入るのが、自分のために 遅くなっているということはないだろうか。


へブル人への手紙 4:13
「 ···神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。
この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。」

と、ここに 書かれてある通りです。

コリント人への第一の手紙 4:9には、こう書かれてあります。

「 わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。」

ここでは ‘’見せ物‘’ と書かれてありますが、
天使たち(み使いたち)は 我々のことを見守ってくれている、それも、期待して 見守ってくれていると言うことを忘れないようにしましょう。


それで、今回の結論として、
仮に14万4千人級のすべての者が、ヤハウェの望まれるところまで、成長できていなかったとしても、


そのご予定の最終日には、大きな苦難に突入することになるでしょう。


そして 、その際に ある者たちは、火の中をくぐって来た者のようにではあるが、救われる ということでした。



今回は、随分長い話しになってしまいました。

次回 公開する記事の内容は未定です。


From KSRG (ハルマゲドンの決戦シリーズ(23)後編
※ 新規の方は、このリンク先の動画の説明欄をご覧下さい。)
     
     ⇩

https://youtu.be/lkbjVg-vFn4

                                                                                                        • -