From KSRG ✰「神の言葉[聖書]は とこしえに残る」(7)

《神の言葉[聖書]は とこしえに残る》(7) [聖書を理解する上での補足情報]

※ はじめに
先回(6)ではイザヤ書 61章に注目しましたが、
このイザヤ書 61章 に関しては、後日 改めて 詳しい解説を行ないたいと考えております が····、

先回も お話 しましたように、
イエス・キリストイザヤ書 61章の預言を、まったく別の観点から、( 幾つかの 観点から) 解説されました。

イザヤ書の預言を弟子たちに説明するにあたって、その内容とは ほぼ 違う 論点から 話をされたことがありました。

今回は その一つ 、イエスの話された 例え話から 解説したいと思います。



⬜ マタイによる福音書24章45―47節 
     
「 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。

主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。
よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。」



この ‘’主人‘’ というのは
イエス・キリスト のことです。


そして ‘’ 忠実な思慮深い僕 ‘’ これが、いわゆる メッセンジャーのことを言っています。



エス
···· 忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。


と言う論点で この例え話をされましたが、


この例えには、メッセンジャーは もちろんのこと、それ以外の立場の人に とっても、重要なメッセージや教訓となる内容が折り込まれています。


そして この、忠実な思慮深い僕として表されている、メッセンジャー について ですが、


その中には、ヤハウェから特別 重要な責任が与えられて、任せられている者がいます。


また、そうでない者もいます。


もちろん、多くのものを 与えられ、つまり 任せられている者には、多くの事が要求されています。



繰り返しますが、そうでない者もいます。



そのことは、ルカによる福音書の 12章 42―48節 にも書かれてあります。(特に48節後半)


「 そこで 主が言われた、「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる 忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。
主人が帰ってきたとき、そのように つとめているのを見られる僕は、さいわいである。
よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。
しかし、もしその僕が、主人の帰りが おそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして 食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。
そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。
しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。
多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。····」


( ※ ちなみに ルカのこの部分と、先ほどのマタイの聖句 は並行記述です。

ここでは、忠実な思慮深い僕のことが 忠実な思慮深い家令 と呼ばれていますが 同じ者のことを言っています。)



ルカ 12:48 後半に
「 多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」

と書かれてあるように、



すべての者が同じものを任せられ、要求されているわけではなく、

重複しますが、


より重要な事柄を要求されている者は、それだけ責任も重いが、それだけ 報いも大きいということです。

( マタイによる福音書 25章14―30節 も参照。)



これらの聖句から 言えることとして


まず、
ルカによる福音書 12章 42節―48節 の例え話は その時(終末の期間において)の 幾つかの立場の人々の状況を示唆 する 例えとなっていますので、


この部分を読まれる方々は、それぞれ 、自分の置かれた状況に応じて、自己吟味されることをおすすめしたいと思います。



では、ここからは、この例え話の適用
実際にどのような点に留意する必要があるのか、見ていくことにしましょう。



まず ルカ 12:43・44 で表されている者、これは主人が突然 帰ってきた時にも忠実に務めを果たしているなら ···· と言うことです。



それで、問題なのは、45節からですが

もし、その僕が、主人の帰りが遅いと心の中で思い ····と続いています。

まず、一つは、心の中で遅いと思うこと ···、

しかも、それを 口に出して
遅い、遅い、 と言うだけではなくて、召使い たちを打ちたたき、そして 食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、とあります。

マタイ 24:48 以降には、僕仲間をたたきはじめ、と書かかれています。


 僕仲間をたたく、
ルカによる福音書 12:45 では

男女の召使いたちを打ちたたき
とあります

つまり これは、何かしらの仕方で困らせることを意味しています。

もっと具体的に言うと、言論または、文章などで、徹底的に批判する、強く非難する、嘲笑する、中傷すること などが 関係しています。



そして 続く部分の、酒飲み仲間と食べたり飲んだりしているなら
( ルカ 12:46 では 食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば)


これは、気持ちが この世の関心事に戻ってしまい、霊的に酔っている、
要するに識別力、洞察力、などが 鈍ってしまい、今 までのような霊的な見方が出来なくなり、
自分の関心事がヤハウェの御心から外れて行く状態を示唆しています。


このような 悪い僕になってしまわないようにと言う事です。



実は
マタイによる福音書 25章 1節からの例えの中にも 「十人のおとめが ···· 花婿の来るのが遅れたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。」
と言う内容になっています。



ここでも、暗に、遅れることを示しているわけです。


ですから 主人(イエス)が来る、つまり ヤハウェが行動されるのが、遅れる(または 遅れていると感じる)と言うことは、予期しておく必要があると言うことです。



そして、
例えば、ルカ 12:47 には
「 主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、」と書かれてあります。


ここで言っている 主人とはイエスのことです。


では、イエスの心、つまりイエスは何を願っているのでしょうか。


一つは、
マタイによる福音書 7章 21節 にこう書かれています。


「 わたしにむかって『 主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」


ここに はっきりと示されています。

あくまでも、イエスが願っていることは、我々が 父ヤハウェの御旨を行うことです。


要するに 主人の心を知っていながら、と言うのは、

ヤハウェの御旨を行うことの大切さを 知っていながら、と言うことです。


繰り返します。

主人(イエス)のみ心とは、父ヤハウェの御旨を行うことです。


では 今日 我々が心に留めておかなければならない、父ヤハウェの御旨とは


次回のこのシリーズでは、父ヤハウェの御旨のなかでも、特に押さえておく必要のあるものをいくつかの聖句からお伝えできればと 思います。


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次の更新は、《本日のバイブルメッセージ》(8) No.4
今の時期にとても重要な内容のメッセージを更新します。

ある方々にとっては、耳の痛い内容となるかも知れませんが、きっと ヤハウェに喜ばれるために、ご自身を調整されることでしょう。

今まで触れられなかった、プレイヤーの奥義についても、お伝え出来ればと思います。

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