From KSRG ✰《本日のバイブルメッセージ》(8) No.3

《本日のバイブルメッセージ》


❑ 今回は、パウロの書いた手紙から 考察していきたいと思います。

コロサイ人への手紙 です。


この手紙が書かれた場所は、ローマ、

つまり、パウロがローマで投獄されている時に書いたものと言われています。

書かれた年代に関しては、諸説あります。
···それで、大体 西暦61年から64年頃の間のどこかで書いたものと考えられています。


ただ、その時までに、実際に パウロがコロサイを訪れたことは、一度もありませんでした。


おそらく、この コロサイの教会を、当時 設立させたのは、
1章 7節 に 出てくる、エパフラスでしょう。(口語訳 アプリ では エペフラス)


それで もう少し背景についてお話しますと、
当時のコロサイの地域性としては、
まず 禁欲主義がもてはやされていました。そして 心霊術、偶像礼拝、異教哲学、また、皇帝崇拝、などが盛んな地域でした。


そのような中でも、当時 コロサイにいた信者たちは、どうだったのかというと、


手紙の内容を見ても分かると思いますが、


パウロは、この コロサイの教会に対して、特に何かしらの問題を矯正するような内容を書いているわけではないんです。


むしろ、当時 コロサイに いた 数少ない 信者たちを、励まし、力づけ、勇気づける ために書いた手紙であることが分かります。



いずれにせよ 、エパフラス(エペフラス)が、ローマで投獄されている パウロのもとを訪ね、

それで、パウロは霊感によって、コロサイにいる信者たちに この手紙を書いたということです。


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まず、1節をみると、当時 パウロの書記をしていた テモテがパウロと共にいたことが分かります。


そして この1章 からの文脈を読んでいくと分かると思いますが、


この手紙が、コロサイの信者たち、つまり 当時の14万4千人級として 聖霊による証印を押されている者たちに まわされたことは
疑う余地はないでしょう。


ただし、この手紙が正式に 聖典として認定されたのは、まだまだ ずっと先の話です。


つまり、
コロサイ人への手紙も、特に 今の終末の期間に生きる、我々に対するメッセージだと言うことです。


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ただ、 コロサイ1章23節 の内容に関しては、これは当時に関する記述であると解釈しています。

では、その理由も含め、今回は、 コロサイ 1章23節に注目したいと思います。

(口語訳)「 ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが奉仕しているのである。」


(新共同訳)「 ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。
この福音は、世界中 至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。」


この 2つ の訳から見ていきたいと思いますが。


その前に、当時、ヤハウェは14万4千人級だけを選別し集めていたわけです。

今の終末の期間においては、集められるのは14万4千人級だけではなく、それ以外の選別者もいますので、その点、同じではありませんし、状況もちがいます。


それで、繰り返しますが、当時は、ヤハウェは14万4千人級だけを集めていました。

( 残念なことに、一世紀 当時は、14万4千人級の人たちは、ほとんど集まらなかった というのが現状でした。
ごく わずかだったということです。)

そのことを念頭に置き、先ほどの聖句をもう一度 見てみると。


口語訳では、「あなたがたは····すでに聞いている福音の望みから 移り行くことのないよう」

とか、

新共同訳では、「あなた方が聞いた福音の希望から離れてはなりません。」と、


ここで まず、 ‘’あなたがた(が)···すでに聞いている福音の望み‘’ また、‘’あなた方が聞いた福音の希望 ‘’

とあります、

つまりは、コロサイの教会にいた14万4千人級として仮選別されていた人々に対して、あなた方が既に聞いた福音、と言っているわけです。


この聖句から、読み取れることですが、

当時のコロサイの教会にいた14万4千人級として、既に仮選別されていた者たちへの内容であることは、まず分かると思いますが、

しかし それだけでは ありません、

一世紀、パウロがコロサイの人々にこの手紙を書いた、その時には 当時、ヤハウェのみ心にかなった者で、様々な地域にいた 14万4千人級
(その中には、ヤハウェが その人の可能性を見られて聖霊による証印は押されてはいるものの、まだこの時点では、自分が14万4千人の一人であるという自覚が無い者も含む)
として、ヤハウェが 仮選別 するために、それらの人々に 福音が伝わる ことは、
この時点では完了した と言えます。

なぜ そう言えるのでしょうか。

それは、続く部分でこのように書かれてあるからです。

     ⇩

(口語訳) ‘’ この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって ‘’

(新共同訳) ‘’ この福音は、世界中 至るところの人々に宣べ伝えられており‘’


この表現だけでも十分理解できると思いますが、さらに興味深いのは、

この 部分 (宣べ伝えられたものであって・宣べ伝えられており) と言う部分なんですが、ここのギリシャ語は
完了形が使われています。
日本語の聖書でも、それを匂わせるような訳し方がされていますが、

例えば、エルサレム聖書のこの部分を日本語に直訳すると、
‘’ 宣べ伝えられた のです ‘’と訳すことができます。
つまり、完了したということです。


ただ これは、どういうことかと言いますと、地球上の隅々、全域 にまでと言う意味ではありません。

あくまでも、ヤハウェが、当時の状況では これが限界であろう、と判断された範囲での(世界中の至るところの人々)ということです。

ヤハウェは、これ以上、福音を伝えたとしても、もう これが限界だと、これ以上は無理だと判断されたということです。


1つだけ、はっきり分かることは、パウロの手紙のこの部分が書かれたときには、
当時の14万4千人級を仮選別するという目的のために、先ほども説明しましたように、世界中 至るところの人々に福音を伝えることは、完了していたと言うことでした。

今日、マタイによる福音書24章14節の預言についても、
このシリーズの前の記事で解説しましたように、「全世界に宣べ伝えられるであろう」と言う預言的な聖句も、世界中の幾十億と言う、個々の人たち すべてではない、と言うことが、今回の内容からも、読み取ることが出来たのではないでしょうか。

 . . . . 

それで、今回の話の中で、最も注目したいことは、
その当時、ヤハウェが限界と思える範囲ではあっても、世界中の至るところ に福音が伝えられたと 言えるわけです。

その福音は、14万4千人級として  
ヤハウェが仮選別した人々すべてに伝えられました。
でも、結果的にどれほど集められたのでしょうか。

わずかな数の人々しか集まりませんでした。

残念ですが、ヤハウェのみ心にかなう人がそれほど少なかったと言うことです。

では、どうでしょうか、今、この時に、ヤハウェに近づくことが、出来ているということがどれほどの特権かということです。

そのことを本当に自覚されているでしょうか。

実は、これが 今回の一番の教訓ということです。

.........


次回は、このシリーズのラストです。
ある方々にとっては、耳の痛い話になるかも知れませんが、是非、真剣にお読みになられて、ヤハウェからの愛ある矯正を、喜んで受け入れて下さればと思います。

( へブル人への手紙12章6−12節をご参照下さい。)

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