From KSRG ✯「 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 」−(23)

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《 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 》−(23)

  〚  群れの監督者 − ❼  〛

 

 

⬜ 前回の内容では、群れの監督者は、仲間の14万4千人級の事を、日々どのように 思い、気遣い、そしてどのようなプレイヤーを行なっているかについて、ざっと説明ですが お伝えする事ができました。

 

 

ただ、

群れの監督者と言えども、不完全である事には違いありません。

ですから 次のパウロの書いた手紙に記述されている、 自らの不完全な傾向と戦いながらという事です。

 

 

ローマ人への手紙  7章 18 —25節 に 次のように 書かれてあります。

     ⇩

「 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。

 

なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

 

すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行なっている。

 

もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

 

そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

 

すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

 

わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。

 

だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

 

わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。

 

このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」(口語訳)

 

 

····· この聖句の内容によると、実際のところ パウロも罪を犯していた、という事を言っているのでしょうか。

 

 

 

そうではありません。

 

 

 8章 1節 には、

「···· こういうわけで、今や キリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」

 

と このように書かれています。

 

 ???

 

 

これは どういう事でしょうか。

 

これは つまり、罪深い傾向はあるものの、その傾向に支配されるままになるのではなく、自分の罪深い傾向と常に戦い、

悪魔に抵抗する すべ を体得していたという事です。

 

そのような意味では、罪深い傾向を克服していたと言えるのかも知れません、

 

 

どのようにして、自分の罪深い傾向を克服していたのでしょうか。

 

 

それは、自分の理解や知恵、自分の力だけに頼って、戦おうとしたのではなく、

ヤハウェに全幅の信頼を寄せ、ヤハウェに頼り切ることによって、自分にある罪深い傾向を 克服していたということです。

 

 

箴言 3章  5・6 節 にはこう書かれています。

     ⇩

(口語訳)

「 心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。

すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

 
❇  この、箴言 3章 5・6 節 に達している者でなければ、まず、群れの監督者に 任命されることはありません。
   

  それで、実際に群れの監督者について言えば、

群れの監督者も仲間の14万4千人級も不完全な人間であると言う点で何も変わりません。

 

確かに与えられた、監督者としての役割り故に ヤハウェは、それらを行えるよう助け、力を与えて下さっています。   

でも、不完全な人間であるという点においては 同じと言えます。

 

では、他の14万4千人級と 群れの監督者とでは何が異なるのでしょうか。

 

それは、ヤハウェに頼り切るという点です。

群れの監督者はヤハウェに頼り切ると言う点で 際立っていると言えます。

 

例えば これは 一例ですが、

仮に自分が、ヨブのような苦しい状況に置かれたとします。

そのような時に、自分の考えや自分のやり方で 対処し、または、問題から逃れようとするか。

 

それとも、

そのような 苦しい時ほど、それがどれほど 辛い方法であったとしても、ヤハウェの方法で対処したり、もしくはヤハウェを信頼して忍耐する事を選択するか と言うことです。

 

これは、頭で考えるほど容易ではありません。

何故なら悪魔は人間の弱点を知り尽くしており、悪魔が前に置いてくるのはその人にとって最も辛く、また難しい事たからです。

 

それでも、ヤハウェがそのような状況を許された以上、あくまでも、ヤハウェの方法で対処するか、後は、その状況を甘んじて受ける。

これが、ヤハウェを信頼して頼り切るという事です。

 

そのような点で、顕著であると言えるわけですが、

 

 

問題は、悪魔は誰を狙っているかと言うことです····。

 

それらを踏まえた上で、次の内容に入って行きたいと思います。

 
  ·   ·   ·   ·

 

 

さて ···· それでは、前回も触れたように、

ここからは、 悪魔の攻撃について 話していきたいと思います。

 

 

これは、前回 お伝えした聖句ですが、

 

ヨハネの黙示録12章17節

     ⇩

(新改訳 2017)

「 すると竜は 女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った。 」

 

 

ここにあるように、悪魔が14万4千人級を 霊的に殺しにかかっていると言うことは、前回お話した通りです。

 

 

そして、

ペテロの手紙  第一  5章 8節 には、

 

「 身を慎み、目を覚ましていなさい。

あなたがたの敵である 悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと 探し回っています。」

(新改訳 2017) とあります。

 

 

ここで言っている 悪魔というのは、サタン・ルシファー のことです。

 

 

ペテロは 悪魔をライオンに例えていますが、

 

通常、ライオン(獅子)というのは、獲物として どのようなものを標的にするでしょうか。

 

 

基本的には  弱いもの、最も弱そうに見えるものです。

 

 

そして ここを見ると、「食い尽くす 」 と書かれてありますが、

 

 

この、‘’ 食いつくす ‘’ に関しては、以前に  iza2464 様 が

🔹【14万4千人の奥義】(3)〚 目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ 〛

の記事の中で、解説して下さっていますが。

 

 

一言で言うなら、

全く 抵抗 出来ない状態にまで追い込む  と言うことです。

 

 

そして、パウロも 次のように述べています。

 

テモテへの 第一の手紙 2章14 節  を見ると、

 

「 また アダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。    」  (口語訳)

 

と 書いています。

 

 

···· やはり、

この時の悪魔の標的は、まず 弱い方の エバを と言う事でした。

 

まず、霊的に弱い者を、罪を犯すよう 陥れる事で、

強い者を悩ませ攻撃する、何とかして 強い者も引きずり込もうという、

 

これが、悪魔サタンの攻撃スタイル、常套手段 と言うことです。

 

コリント人への手紙 第二 11章28・29節
「 ┅ さらに、日々私に重荷となっている、すべての 教会(会衆)への心づかいがあります。誰かが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。誰かがつまずいていて、(口語訳:罪を犯しているのに)私は心が激しく痛まないでしょうか。」

 

このような理由から、群れの監督者は、先回 お話したような、プレイヤーを行なわなければならないという事です。

 

 

では、その結果、パウロはどれ程の 苦難に遭遇したのでしょうか。

 

 

例えば、コリント人への手紙 二  11章 23節 からを見ていくと、パウロが遭遇した様々な苦難について書かれてありますが、

 

じつは、これは、パウロが、経験した苦難の中の一部に過ぎません。

 

 

なぜ そのように言えるのかについて ですが、

 

 

この手紙を筆記した時期は、西暦 56年 頃 で、

 

 

その後に パウロが 遭遇したであろう 苦難はこんなものではなかったと いう事です。

 

その事は 一世紀の著名な歴史家  の何名かも証言しています。

 

 

そして、さらに パウロは 自身が処刑される 直前に書いた手紙の中で 次のようにも述べています。

     ⇩

 

テモテへの手紙 二  1章 11・12 節

「 この福音のために、わたしは 宣教者、使徒、教師(教える者)に任命されました。

そのために、わたしは このように苦しみを受けているのですが、それを恥じてはいません ····」(新共同訳)

 

 

この聖句からも、パウロが、これらの苦しみを受けたのは、この務めの故であるということですが、

 

 

その節の 特に後半を見て頂きますと、

 

「 わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方が かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」と、

 

 

▪   ‘’ わたしに委ねられているもの ‘’   を 

 

▪   ‘’ かの日 ‘’(ハルマゲドン)に至るまで、

 

▪   ‘’ 守ることがおできになると確信しているからです ‘’

 

 

とあります。

 

 

 ···· つまり、

これは 今日における ‘’預言‘’ です。

 

 

 

さて、ここまで  まず、悪魔サタンの基本的な攻撃スタイルについて お話してきましたが、

 

 

そうではあっても、

一世紀当時、悪魔は 当時の14万4千人級の中で、誰よりもパウロを徹底的に攻撃していました。

 

 

悪魔は霊的に弱い者から潰しに来るという、基本的な攻撃スタイルがあるにもかかわらず、

パウロには そうした と言うことです。

 

 

どうしてでしょうか。

また、先ほどのテモテの聖句が  ‘’預言‘’ である以上、

 

その事は、今日の 群の監督者についても、全く同じであると言うことです。 

 

 

因みに、これは 少し余談と言うことですが、

パウロは 自分が、そのような目にあうであろう事は、既に 教えられており、知っていました。

 

 

そのことは、

使徒行伝 9章16節 から知ることが出来ます。

これは、イエス・キリストが アナニヤに述べた言葉ですが。   

     ⇩

 

「 わたしの名のために 彼(パウロ)が どんなに苦しまなければならないかを、彼(パウロ)に 知らせよう。」

 

このイエスの言葉からも、パウロは自分が苦しみを経験する事について 前もって知らされていたということが分かります。

 

 

話を戻しますが、

 

 

ただ、そうだからと言って、悪魔の基本的な攻撃スタイルは何も変わっていません。

 

 

悪魔は霊的に最も弱い者を標的にするということです。

 

何故なら、それが効果的だからです。

 

 

それでは 次回、その 悪魔の策略・攻撃 がどのようなものなのか についてお伝えしたいと思います。

 

 

         ▫     ▫     ▫     ▫   

 
最後に、
今回 ご紹介した、ローマ人への手紙 7章18 〜25節・8章 1節  を理解する為に、もう少し説明を加えておきたいと思います。
 
·• 補足の 解説 •·
例えば、7:18 の「わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないこと···」。      また、
7:25の「····わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」   に関して、
この、‘’ 肉では罪の律法に仕えている ‘’ と言うのは、我々がアダムから遺伝の法則によって受け継いでしまった、不完全性のことで、
人間として、不完全な肉の体である以上、ささいと思える罪、小さな誤ちを犯してしまったり、失敗してしまうことは、不可抗力で、仕方のない事かも知れません。
※( ここで言っている ささいな罪や失敗というのは、例えばですが、日頃から気を付けていても、言葉で失敗してしまったり。意図せず、人を傷付けてしまったりして、後悔するなど、また、判断ミスによる失敗など。勿論 これらも、改善していくことは可能ではありますが、不完全性を受け継いでいる以上、 完璧にとはいかないでしょう。何より、我々は気が付いていようが 居まいが、一日の内に何度もヤハウェに対して罪を犯しているのが実状です)
 パウロもその事を自覚し、自分の不完全さを痛感していたと言うことです。
それで、日々の様々な間違いや失敗を許して頂いている事に関して、神に感謝すべきであると 言っているわけです。
何故なら、我々が日々 犯す、それらの失敗や、罪というのは、イエス・キリストの払われた贖いの犠牲によって 許されているからです。
ですから、
自分の不完全さがどれほどのものであるのか まず 自覚することです。 
この段階がステップ1 ということで、
これはとても大切なことです。
そのことをしっかりと自覚していないならば、自分自身のことを、出来ている(または、そこそこ出来ている?)と錯覚してしまうからです。
そのような見方に 用心する必要があるのは どうしてでしょうか。
自分が(そこそこ)出来ていると思えると、自分にある問題を改善する為に、そこから更に努力したりする事は難しくなってしまうでしょう。
自分にある問題に目を瞑(つむ)ってしまうという事です。
 
 ····ですから、自分自身を正しく見つめることは重要といえます。
自分自身の不完全さをそのように自覚できるようになってくると、ヤハウェの愛、 過分のご親切や、憐れみ、また、忍耐強さ などを理解し、深く感謝するための土台がまず整うわけです。
そして、この段階になると 少なくとも 重大な悪行というものは 犯さなくなるはずです。
ヤハウェに対して、そのような心からの感情を抱くようになれば、ヤハウェが忌み嫌われる事を行なって、自分とヤハウェ との貴重な関係を損なうようなことは したくないと思うことでしょう。
むしろ、どうすれば よりヤハウェに喜ばれる存在になれるか、何をどのように努力 出来るかを 模索するようになり、
逆に 悪魔を喜ばせることを 避けるよう、真剣に努力するようにもなります。
つまり、これが
「 心では 神に仕えている 」
  という状態のことです。
◇ 興味深いことに、パウロはこれ(ローマ人への手紙)を書いた約9年後に、テモテへの第二の手紙 4章7節で、
「 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき工程を走りつくし、信仰を守りとおした。」と書いています。
このように言い切ることができたのです。
そして、このテモテへの手紙を書き記してから、間もなく(1年以内)パウロは処刑されて亡くなっています。(手紙を書いてから、処刑されるまでの厳密な期間は不明です。)
ですから、このテモテの手紙を書いている、時までの、少なくとも9年間は、
そのような試練、苦しみを経験しながらも、継続して 心を常に守り続けている状態を保っていたと言えるでしょう。
恐らくパウロは亡くなる時までそのように、りっぱに信仰を守り通したのでしょう。
 
パウロが述べていたのは、パウロの心が、ヤハウェへの従順という的から 全くぶれていないということでした。
ローマ人への手紙のこの聖句にはそのような意味があるということを、ご理解頂ければと思います。

 

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