From KSRG ✰《 本日のバイブルメッセージ 》(8)No.2

《本日のバイブルメッセージ》(8)No.2



◉ 先回 No.1の内容を まだお読みになられていない方は、先ずそちらの記事からお読みくださればと思います。



❑ それでは 早速 先回の話の続きに入っていきたいと思います。


人の心をご覧になられる方、また、全能の神で あられる ヤハウェ がです、

たとえば、福音を伝えたとしても、改心の可能性がみじんもないと···、つまり、福音を聞いてもこの人は 心が動く可能性が全くないと 判断された場合に、

その人に福音を伝える意味はあるでしょうか。
  

····もちろん、当人の選別には 関係なく、別の目的のために、

例えば、ある時には、敵であっても 真理を発信して(聞かせて)、その敵を何らかの目的で 用いる、ということは あるかもしれません。
( ※ 出エジプト記 9章16節をご参照下さい。)

そのような場合は、真理を伝える( 福音を知らせる )事は 直接 当人の選別とは関係がないかも知れません。



少し話をもどしたいと思います。


今回 の考察は、先回お話した、

    ⇩

▪▪▪ 世界中の幾十億 という個々の人々 すべてに、福音を伝えてからでなければ 終わりは来ない、
という訳ではない ▪▪▪


···と言う、その根拠について考えていく ということですが、



まず、ヤハウェ預言者たちに語られた言葉から見てみましょう。


ヤハウェは、預言者サムエルに次のように話された事があります。

サムエル記(上) 16章 7節 中ほど

「『 ····わたしが見るところは人とは異なる。
人は 外の顔かたちを見、主はこころを見る。』」(口語訳)



さらに ソロモンに対して 次のよ
うに 語っておられます。

箴言 21章 2節 (新改訳)

「 人には自分の歩みがみなまっすぐに見える。
しかし、主は人の心を評価される。」



そして、

エレミヤ書 17章 10節です。この聖句に関しては新共同訳と新改訳から見てみましょう。


(新共同訳)
「 心を探り、その はらわたを究めるのは 主なるわたしである。
それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。」


(新改訳)
「 わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれ の生き方により、行ないの実にしたがって報いる。」


これらの聖句から、ヤハウェがどのような方であるか 知ることができます。


ヤハウェは、人の心を探られます。


そして その人の 心の可能性をみて、少しでも その可能性があるならば ·····機会を与えるかも知れません。


しかし 冒頭でも述べましたように、その人の心の状態を見て、全く 可能性が無いと判断された場合、その人は最後まで 聞く機会が無いかもしれません。



いずれにせよ それは ヤハウェが判断されると言うことです。

[ また このことについては、実はヤハウェの深い知恵や愛などが 関係していますので、その点は 後半で お話 したいと思います。]

では 、
イエス・キリストが語られた別の預言から、見ていきましょう。


福音書の記述の中で、
イエス・キリストが、12使徒たちを呼び寄せて、使徒たちに 特別な力を授け、
イスラエルの家の 失われた羊のところに 行くように と言われた時のことです。(マタイによる福音書10章)


このとき、イエス・キリスト
10章 23節 で ある預言を語られました。

( 時々、イエスは、このような手法を用いて、預言を語られることがありました。)

23節の中ほどを見ると、

「 よく言っておく。
あなたがたが イスラエルの町々を回り終わらないうちに、人の子は来るであろう。」

と言われましたが、
これ、どういう意味でしょうか。

簡潔に言いますと。
人の子(主人が)到着する時までに、 ‘’イスラエルの町々‘’ と預言的に表されている、
これは、‘’ 大バビロンが支配している全世界 ‘’ のことです。


つまり、 人の子(主人)が到着する時までに 全世界の個々の人たち すべてに伝えられることはないと、言っているわけです。



[ マタイ 10:23 の中の この一部分だけ、イエスはさり気なく預言を語られたということです。

エスは時々 そのような手法で、預言を語られることがありました。

※ この部分の新改訳 聖書の参照聖句の項目を見ると、

マタイ 16:28 が挙げられています。

そこを見てみますと

マタイ16:28
「 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる。 」


この ‘’人の子が来る‘’ と言う、これは明らかに将来の預言です。]



ここで 少し まとめてみますと、

心をご覧になられる ヤハウェは全世界の個々の人たちすべて、と言うよりも、

少しでも、改心する可能性のある人に重点的にメッセージを発信される ということが、いくつかの聖句から 理解 出来たのではないでしょうか。


もちろん、改心の可能性が全く無いような、敵に対して メッセージを伝える(聞かせる)こともあるという事でした。

そのような 場合、そうすることによって、そのほかの人たちにメッセージを広げるために用いることがある と言う点も 考えることが出来ました。


我々、人の心を探ることなど出来ない 不完全な人間には、誰が真理を受け入れるか、どの程度 可能性があるのかを、見定めることは出来ません。

その人に福音を伝えるか否かは、全能の神、ヤハウェの判断と言う事でした。


そして、先ほど、そのことには、ヤハウェの 深い知恵や愛も 関係していると述べたと思いますが、


一つは、ヤハウェは愛の神で
自由意志を尊重される方ですので、どれほど 良かれと思っても、嫌がる者には強制はしませんし、できないんです。


もう一つ、これは、前回も触れた点ですが、まったく 福音を聞く機会がなく、亡くなられた方について考えてみたいと思います。


ある方は、そのような者がいることは、不公平だと思われるかも知れません。


では、すべての人に等しく知らせるのが 果たして最善なのでしょうか。


少し、考えて見てください。

たとえば この終末の動乱の時代にです。
ある方は、どれだけ福音を聞いたとしても、関心を示さないとします。

その理由は色々 考えられます。

家族を支えるのに精一杯で、また生きて行くだけでも 大変で、気持ちに余裕がないかも知れませんし、また 個人個人の様々な理由で聖書の福音に興味を抱けない。

そのうえ 悪魔が全世界を惑わしているわけです。


ですから、このような情勢で、福音に関心を示せないような人々にとって、どうでしょうか。

そのような人は、新しい地に復活させられた後に、もっと整った環境の中で、また、悪魔が惑わしたり 邪魔をすることもない、

そのような状況のなかで再教育を受けて、その人が実際に益を受けるならば、その方が最善と言えるのではないでしょうか。


そのように、知恵に欠けた我々でさえ、少し考えてみただけでも、 そういったことは容易に理解できると思います。


であるならば、
一人一人の心をご覧になられ、それらの人々の幸福、福祉を考えておられる ヤハウェなら、

それぞれの人 にとって、どの タイミングで 教え、教育するのが最善であるのか 一番よくご存知だと言う事です。

そこにも ヤハウェの 愛、知恵、公正、力 が表れているというわけです。


では、今 この時にヤハウェからの教えを受けることが出来ることは どれほど特権か、心から感謝できますね。



それでは 次回、
パウロの書いた手紙の ある 預言から考察し、そして 最後に もう一度 エレミヤ書 17:10 を深堀り考察して、このシリーズは終わりとしたいと考えております。

                                                                                                        • -