From KSRG ✰「 番外編 」(1)

 今回は番外編です。

現在の世界情勢を分析してみると、まさに 一触即発、今にも第三次世界大戦 か といった状況にあります。

メディアの偏った報道によって、
ロシア つまり 東側 は 悪、そして NATO軍 は善、また ウクライナはかわいそうと、世論はそのような傾向に傾いている状態ですが…。

確かに いかなる理由であったとしても 一般市民を巻き込む 戦争を正当化できるものではありません。

ただ、今回のこの情勢 これはまさに聖書預言の成就と言えます。
ヨハネの黙示録 17章 を見ると、
獣の上に淫婦が座っている
という描写があります。

つまり、この淫婦 いわゆる大バビロン(大いなるバビロン)は
今回の情勢によって、

‘’ 人々の血に酔う ‘’

その最高潮になろうとしているということです。


今の この構図は、政治的な観点から 言うならば、

東側 は ロシア 、中国?? 北朝鮮、イラン?? ブラジル、ベネズエラベラルーシサウジアラビアUAE、インド、
など など…。

そして 西側 は ウクライナ、米国、及び NATO軍です。

宗教的な見地では どのような構図かと言うと、

東側 が ロシア正教、そして ユダヤ教の一部、と イスラム
その他。

西側 は カトリックイエズス会、そして プロテスタント諸教会、と ユダヤ教の 一部 と言ったところでしょうか。

で、さらに、それらの上には
たとえば、この 西側には 世界中に最大の影響力を与えている ある財閥の集合体、そしてそれに対抗するという形で、東側にもその西側に負けないぐらいの財閥が存在している、と今回のところは言わせていただきます。
それらの財閥が、今回の戦争においても、ぼろ儲けしていると言うことです。

さらに、
世界各国 から ウクライナ人道支援 と言う形で 寄せられている支援金、それらの支援金は何処に流れているのでしょうか、被害に遭っている ウクライナの人々に配られていると思われるでしょうか。

もう、分かる方には 分かると思いますが、そのほとんどが大バビロンのポケットマネーになっているということです。


因みに、

トランプ前大統領のことについて ですが 表上は、キリスト教 プロテスタント 福音派 となっておりますが宗教的 見地から考えるならば、全く別の宗派に属しています 。
( ここでは、あえてそのことに
  ついては 控えますが…。)

それと、 トランプ 前大統領は任期中に、エルサレムに米国大使館を移すという事をしましたが、その時に それを 全てのユダヤ人が喜んだわけではないんです。

つまりこれは、ユダヤ人(ユダヤ教)が2分化していると言うことです。

一方は、今の東側と深い関わりがあり、もう一方は、西側と深い関わりがあります。

それでは トランプ 前大統領は
その どちら側と深い関わりを持っているのでしょうか?

表で何と報道されていよう
が…。

たとえば、
トランプ前大統領は、任期中にNATO軍を解散させようと試みたこともあります。

そして、言うまでもなく、現在のアメリカの大統領とも対立しています。
 
それらのことから、トランプ氏はどちら側と考えることが出来るでしょうか? 
 
つまり……ということになりますね。


ただ、ここで、 読者の方々に立ちどまって、考えて頂きたいことなんですが、

もし、ここで 核による 第三次世界大戦 が始まってしまったとしたら、全人類は何回 核の炎に包まれることになるでしょうか?

ヤハウェは そのようなことは望んではおられません。
そのようなことを許されるはずがありません。

では、今回 述べて来たように、今行なわれている ロシア、ウクライナ 情勢、これを聖書的に どのように分析することが出来るでしょうか…。


仮にです、これらの ‘’戦争‘’とも言える情勢がもし すべて ‘’やらせ‘’ だったとしたらどうでしょう
か。

つまり、お互い( プーチンもゼレンスキー も、また 米国、NATO軍 )それらの指導者がですよ、事前に、あるシナリオに
基づいて、 すべて分かった上で(ある意味 役者のように)役割を演じているとしたら…

大バビロンが用意したシナリオにそって、各国の指導者たちがまるで 映画、劇場、の役者のようにです、要するに 全部 やらせ だったら と言うことです。

そんな ばかげた話、そんなことはあり得ない!と、
まあ 多くの方が そのように思われるでしょう。

そのせいで、実際に多くの軍人や一般市民の血が流されていることは事実です。

それでも 今のこの情勢が完全な ‘’やらせ‘’ だったとしたら、
各国の指導者が 、すべて 筋書き通りの ‘’やらせ‘’ をまあ、演じているとしたら、と言うことです。

これは 今までの 概念、常識 と言うものが ある意味 覆ってしまうようなことです、ここまで、読まれた方のなかには、頭の中が崩壊 状態の方もおられるかもしれません。

そのように感じる方は、少し 気持ちを休めてから、続きを読まれたらと思います。

いきなり、ぶっ飛んだ話と思われるかも知れませんが、

今、世界中で起きている、様々な事柄を深く考察しておられる方であれば、この続きの話を聞いたとき、またその根拠を知ると、 全部がつながり、おそらく納得がいくと思います。

また、矛盾に感じていたこともすっきり解けると思います。

是非、先入観に捕らわれずに、この続きを 読んで下さればと思います。

この話の続きは、次回 さらに深堀りして 情報提供できたらと考えております。

............


では、今回 この機会に
もう一つ だけ、読者の方々に
お話したい事です。

死海のふもとの小さな村に住む
人々の伝承によると、


イエス・キリスト は 西暦に入ってからの、最初のサムライと言われています。

つまり 武士道精神のパイオニアと言うことです。

では、武士道とは何でしょうか、、。

武士道 と言っても いろんな
定義があり、
現在では武士道の精神そのものが、ゆがめられて教えられています。大バビロンによって。


本来の武士道とは…?

日本には、武士道精神なるものがありますが

では …ここで 武士道 とは何なのか 改めて 簡単に説明したいと思います。

『 武士道とは、死ぬことと、
  見つけたり。』

この言葉は 命 知らずを美化するものではなく、
また、体の ‘’死‘’を意味するものでもありません。

「 サムライ」と言うことばを 現代 社会でも耳にすることがありますが、その言葉には、勇ましい、勇敢な
といったイメージがあります。

本来「 サムライ 」とは、身分の高いものに 仕える者、言い換えるならば、自分を捧げる者を意味しています。

武士道とは、
主君に 自分を捧げることにより 心の迷いを断つ、というものです。

主君のためなら、死をもいとわないと言う所から、勇敢なというイメージが定着したのだと思います。

それで、

ここで言う 主君 を ヤハウェ
考えて見て下さい。

人々は、日々の生活の中で、どうするべきかと言う迷いが生じることが 多々あるものです。

サムライ にとっては、そのような迷い、 どうするべきか と言う問いは すべて、主君にまかせ 委ねる事により、それらの迷いを 一掃できます。

委ねきった者だけが 武士道の最高峰である、不動の心 を知ることができます。

先ほど述べた、

「 死ぬことと 見つけたり 」 の

‘’ 死ぬこと‘’ とは

まさに、自分を押し殺す こと、
心を殺す、要するに 心を制する
という意味です。

主君に自分を捧げるために、自分の心を制すると言うことで
す。

くりかえしますが、日々の生活の中で生じる、どうするべきか と言う問、迷いに関し、すべて 主君にまかせ、委ね、迷いを一掃する という そのような心の状態と言うことです。

そのように主君に仕えたいと なった者は、何の迷いもなく、喜んで、そこに自分の骨をうずめたい、と言う境地になる、

つまり、
この「死ぬことと 見つけたり」と言う 言葉は、サムライにとって 自分の死ぬ場所はここしかない、という意味でもあります。

武士道の、この、
全てを主君に捧げること
と言うのは、

イエス・キリストが 神ヤハウェに全てを捧げたことと
同じ意味を持つとも言われています。


近年 よく、日本のアスリートが
‘’サムライ‘’という言葉を口にするのを聞くことがありますが、
でも、それらの人々の多くは まず自分を見てほしい という欲望 、つまり それは自我に支配されている ということです。

武士道とは、そういうものではありません。

主君に己を、何の迷いもなく 委ねきること。

これが 武士道 精神です。

そのように 体を超えたものだけが、真の武士道、不動の心を得ることができます。

繰り返しますが、そこには 迷い
という言葉はありません。

今の日本人には見られない精神、また今のキリスト教に無い精神です。
これが 武士道精神 と言えるのではないでしょうか。

イエス・キリスト
ファースト・サムライ と言われているのは そういう理由からです。

それで、You Tube From KSRG の動画を視聴して下さっていた方々で、 少なくとも このブログを定期的に読んで下さっている方々は、
この終末における 真のサムライ本物のラスト・サムライ と言えるでしょう。

そのように言える根拠となる
聖書の言葉を 二つ ここに書いて
おきます。


マタイによる福音書 16章 24節
イエス・キリストの言葉です。

「 だれでも わたしに ついて
きた いと思うなら、自分を捨 
て、自分の十字架を負うて、
わたしに従ってきなさい。」
 
     とあるとおりです。

ローマ人への手紙 14章 7,8節

「 すなわち、わたしたちのう
ち、だれひとり自分のために生
きる者はなく、だれひとり自分
のために死ぬ者はない。

わたしたちは、生きるのも
主のために生き、死ぬのも主の
ために死ぬ。だから、生きるに
しても死ぬにしても、わたした
ちは主のものなのである。」

《 参照聖句 マタイによる
福音書 6章19〜34 節 》

このブログの読者の方々が真ののラスト・サムライとなられる
ことを願っています。