From KSRG ✰「 聖書を正しく解釈する方法、また その注意点 」(1)

 聖書の価値に気付き、聖書を個人的に愛読されている方々の中には、聖書の言葉を覚えることに重きを置き たくさんの聖句を暗記しておられる方もいれば、ある方々は聖句の場所はすぐに出てこなくても、一つ一つの聖句の意味を深く黙想し メッセージをつかむように努力されている方もおられます。

 これ、どちらのほうが益が得られるのでしょうか?

 今回から 聖書を正しく解釈する方法、またその注意点 と言うことで そのようなことも含め、聖書の実例を挙げながら シリーズの形で解説して行きたいと思います。


《予備知識として…》
[ もともと旧約聖書は最初に古代ヘブライ語で書かれ、一部はアラム語で書かれました。
 新約聖書に関しては、マタイによる福音書を除き、全て 古代ギリシャ語(コイネー)で書かれました。(マタイによる福音書は、最初は古代ヘブライ語で書かれました)

 現在でも その写本は何万点も存在しており、最も古いものとされている 死海写本は とても有名です。]
 
 

それで、出来るなら、そのような 原語から聖書を解読できたら 一番ベストなのかも知れませんが…
 

 では、聖書を正しく理解するためには原語から聖書を解読しなければならないのでしょうか
と、そのような疑問がでてくるかも知れません。

 そうなると、聖書を読み益を得たい人、正しく理解し、その意味を悟りたい人は、原語の古代ヘブライ語 ないし 古代ギリシャ語から まず 習得しなければならないのか と言う問題が生じてきます。

 
そのような事は現実的に考えて とうてい無理な話です。


 例えば、母国語でさえ、正しく使いこなすには 相当、その母国語に通じていないと 難しいことがあります。

 
ですから 聖書を正しく解釈するまでに 原語を習得するというのは現実的ではありませんし、ヤハウェは全ての読者に そのようなことを求めてはおられません。


 ですから、天の父ヤハウェは、世界中の人々がそれぞれ自分の母国語で聖書を読むことが出来るように、ヤハウェが用いられた人々を通して 世界中の言語に聖書を翻訳 .普及させていったということです。


 しかし、その翻訳の過程において、いくつかの問題も生じてきます。

 
どのような問題でしょうか?


 聖書は今でいう、イスラエル また アラブ地方で書き記されたものです。


 それで、例えばですが、イスラエル 及びアラブ地方には生息していて、それ以外の国や地域には生息していないような動物の名前を、翻訳する場合には どのように訳すかといった問題があります。
 その地域にはいるが それ以外の国や地域にはいない動物の名前などはどのように訳せば良いのでしょうか?

 出来る限り メッセージをその通り伝えるために その国や地域にいる動物の中で最も近い動物の名前を用いるかも知れません。


 一例を挙げてみます。


マタイによる福音書 23章33節で、イエス・キリストは偽善的な律法学者やパリサイ人 たちに対して 次のように言われました。

「 へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれる
ことができようか 」
と、このように書かれてありま
す。

 
日本語ではここで「へびよ、まむしの子らよ」と訳されています。

そもそも イスラエル及びアラブ地方に‘’まむし‘’は生息しているのでしょうか?

 
実際には ‘’まむし‘’ではなく、猛毒を有している 頭に2本の角のようなものが生えている“つのまむし” というへびは生息しています。強い毒性をもつへびです。
 つまり この部分はもともとは “まむし” ではなく “つのまむし” だったんです。


 では なぜ日本語に訳される時に 「へびよ、つのまむしの子らよ…」と訳されなかったのでしょうか


 理由は簡単です、日本には つのまむし なるものは生息していないからです。


 イエス・キリストは、ここで
この地方に生息している最も毒性の強い、猛毒を有した つのまむし というワードを使って、律法学者やパリサイ人たちを糾弾されたわけですが
 
 
この部分を日本語に訳すにあたって、日本には つのまむし というへびは生息していないんです。
 
それで、実際にそのように訳されても 読者はピンと来ないかも知れません。

 
 日本に生息している毒ヘビの中で 猛毒を有するへびと言えば まむしに匹敵するへびはいません。

 猛毒という点では まむしはハブよりも強い毒を持っています。


 ですから、日本人に この聖句のメッセージを伝えるためには
まむし というワードをつかうのが一番ベストだったと言うことです。

 では、まむし というものがいない国や地域ではどうなんでしょうか?
  そのような国や地域においては、そこに生息している最も毒性の強いへびの名前が使われていることでしょう。
  
 これは聖書が翻訳される際に国や地域によって、また 状況によって 選ばれる単語や 訳し方が調整されている事を示す一例です。

 この事から何が分かるでしょうか?


 まず、一つ 言えることは、手に取る聖書によって 訳し方や、選ばれている単語も幾らか異なっているところがあるということです。

 ただし、その聖句全体が伝えているメッセージは変わりません。

 ここはおさえて置いてくださったらと思います。
  

 ですから、聖書を理解するにあたって、過度に、聖句の一字一句にこだわり、その通り言葉を暗記する方に重点を置き 極端になるのはあまり望ましくありません。
 
 聖書の言葉を人生の道標とし、自分を律したり、力を得たり、また他の人に益を与える目的で、自分に宝として蓄える意味で覚えていくこと自体は良いことです、むしろそのようにすべきでしょう。


 冒頭で話した方々は両方とも
純粋に聖書に感心をもたれて、その価値を認め、聖書を理解したいと 努力されている方々ですので、是非そのような方々 全てが聖書から 益を得て頂きたいと思います。


ただし、これは当然のことですが、聖書の言葉を暗記して、覚えることだけに重点を置いたとしても十分に益は得られないでしょう。
 

 その点で極端にならないようにすることは大切です。
 むしろ、ヤハウェは、聖句や聖書全体が伝えているメッセージを読み取り、当てはめるように努力することを望んでおられます。


まずこれが一つ目の要点です。


 テモテへの第一の手紙 2章4節には、
 
神は、すべての人が救われて、真理を暗記するように
とは書かれてないんです。
 
そこを見ると、

「 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる 」と書いてあるんです。

 「 悟るに至ることを望んでお 
られる 」です、
 これは、口語訳の訳です。


 ちなみに、この部分の新共同訳、または 新改訳の訳では、
 「 真理を 知るようになることを…」と訳されています。


 確かに 新共同訳や新改訳の訳だけを見ると、ただ 単に真理を知ったら良いと言う、そのような意味に取られるかも知れません。

 一方、口語訳では 「 真理を悟るに至ることを望まれる 」と訳されています。

 ここでは どちらの訳し方の方がふさわしいと言えるでしょうか?

 もう お分かり頂けると思いますが、この部分に関しては 口語訳の方が原語に近く、また この聖句が言わんとしているメッセージを伝えていると言えます。

 ただ、この口語訳の訳し方でも 実は かなり雑に訳されているんです。

 ここで「 悟るに至る 」または新共同訳の「知るようになる」と訳されているギリシャ語の字義的な意味は、正確な知識、さらには 識別力 という意味合いが含まれる言葉が使われているんです。

 それでも、この口語訳の訳し方でも メッセージは十分伝わると思います。

 現在 日本では、基本的には 口語訳聖書、新共同訳聖書、そして 新改訳聖書 の3つの訳の聖書を読むことが出来ますが、
 
 もし仮に 、ヤハウェがもともとの原語を一字一句 暗記させることを重要と見ておられるとしたら… 全ての聖書の訳は同じでなければならないでしょう。

 でも、中ほどでも言いましたように
ヤハウェはそのようなことは望んでおられません。
 
 つまり、聖句をそのまま暗記することが目的なのではなく、その聖句が言わんとしているメッセージを悟ることが重要であると言えるでしょう。

 ですから
ヤハウェは今日に至るまで それぞれの聖句や聖書全体のメッセージは しっかり保護し、残してこられたということです。

 ※ それで、メッセンジャーとしての務めを果たしたいと思われる方々は…
 例えば、聖書の言葉を覚えてその通り、 他の人に伝える。聖句をそのまま他の人に教えてあげるだけで
 それで十分務めを果たしていると言えるでしょうか?

 もし それを聞いた方が、その聖句の意味を理解できなければ、その言葉を聞いた人はそこから益が得られるでしょうか?
 その言葉をどのようにあてはめれば良いのでしょうか?

 イエス・キリストやそのお弟子さんたちはどのような模範を残しているでしょうか

 実際に イエス・キリストやお弟子さんたちが 旧約聖書を引用された時には、その聖句を 一字一句 同じように引用されたわけではないんです。
 
つまり、聖句を丸読みして終りと言うようなことはしていなかった ということです。

 では、次回から それら イエス・キリストや お弟子さんたちの 模範となる例と さらには、非常に興味深い
 ヨハネの黙示録22章18. 19節
「 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
また、もしこの預言の書の言葉を取り除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。」
 と書かれてある、この言葉にはどういう意味があるのかを解説したいと思います。