From KSRG ✰「 聖書を正しく解釈する方法、また その注意点 」(2)

 
  From KSRG の You Tube チャンネルから 、引き続このブログを読んで下さっている方々の中には、

メッセンジャーとして行動したいと考えておられる方や、
現在 既に何らかの形でメッセンジャーをされている方々もおられます。
 
そのような方々の中に ある事で疑問をお持ちの方々がおられるようです。

これまでに幾名かの方から よく似た質問を頂いていますので、

その疑問に答えるという意味で 今回の記事の内容を書かせて頂くことにしました。


 その疑問と言うのは…

 何らかの形でメッセンジャーとしての務めを果たす際に、
 例えば ブログなどの形で聖書の教えや希望を伝えたり、またある方は From KSRG の You Tube動画を紹介して下さっている方もおられますが、

その際に、例えば 自分の意見や感想などを含めることは、ふさわしいのだろうか?
 また ブログを書く前に祈って黙想し、気付いたことなどを含めることはよいのだろうか?
 
 と 言った疑問です。

そのような 個人的な意見や感想などを加えるのは せん越なことではないかとか、

 または、聖書に直接書かれていない事を そのような仕方で 他の人に伝えることは 良いのだろうかと感じるかも知れません。

 それで 、 前回の終わりに紹介した 聖句
 
 ヨハネの黙示録 22章 18,19  節 の

「 この書の預言の言葉を聞くす
 べての人々に対して、わたし                          
は警告する。
 
 もしこれに書き加える者があ         れば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられ     る … 。」
 
 と、書かれてある、この言葉に(原則的に)反するのではと感じる方もおられるようです。

直接 聖句のその部分に書かれていないような、説明を加えたり、 あるいは自分の意見、感想などを添えること(つまり、加えること)はよくないと考える方もおられるようです。

それで、今回はそのような見方について 少し 聖書から考えていきたいと思います。

 
 ではまず、 ヨハネの黙示録 22:18,19 に関して説明したいと思います

この聖句が伝えている事はどういうことなのかと言いますと、

 一つは、
「 この預言の書の言葉 」と
あるように 、

これに関しては “この預言の書“ つまり、ヨハネの黙示録のことを言っているのであって、聖書全巻 について言っているのではないと言うことです。(これに関しては です)

 でも だからといって、じゃあ聖書の他の部分だったらいいのかと言うと、もちろんそういうことではありません。

 ただ、ここで言わんとしている事は、

「 これに書き加える者があれば」 とか 「 言葉をとり除く者があれば 」
 
とあるように、翻訳する過程において、個人的な都合や目的、または好みなどの為に 故意に 原本に書かれていない内容を 書き加えたり、

または、そのような利己的な目的で ある部分を故意に削除したりして、いわゆる改ざんです、そのような事をしては いけないと言うことです。

 
 ですから 前回の話の中で説明したような、他の言語に翻訳する過程で、その箇所で伝えているメッセージを出来る限りその通り 残す為に、生じてしまう微調整の事ではなく、
 
明らかに、翻訳者や 翻訳を依頼する側の 個人的な都合や好み などの目的で 故意に原本の内容に書き加えたり、または削除することがあってはならないと言うことを述べています。

そのような行為は 明らかに大罪です、そのことを言っている聖句です。 

もちろん、先ほどの聖句にかんしては 繰り返しますが「 この預言の書 の…」
と言うことですから、基本的には ヨハネの黙示録 この書に関してという事ですが、

(原則的には聖書全巻についても同じことが言えるでしょう)

翻訳する過程において、神の言葉である 聖書を故意にいじる、つまり改ざんすることなど あってはならないことです。

 
 まず、ヨハネの黙示録 22章18,19 の意味はそういうことです。
 
 それで、

バイブルのメッセージを 他の人に伝える時に説明を加えたり、時には 相手の方が理解しやすいように 例えを用いて話したりする事など、これは また別です。

それは 先程の聖句で述べているような 聖書に加えていることにはならないでしょう。


その点で、聖書中の実例を話したいと思いますが、

 その前に もう少し…

バイブルのメッセージを伝える時に 聖句をそのまま伝えるだけでは、意味が分からないことがあります。
(もちろん 中には、特に説明を加えなくても 聖句の言葉だけでも分かりやすいものもあるかも知れませんが)
 
 では、一つの聖句を例に考えてみたいと思います。

 ガラテヤ人への手紙 5章22,23節

 御霊の実(霊の実)について書かれてある聖句です。

どうでしょうか、その実の一つ一つを そのまま相手に伝えただけで、相手の方は、
その御霊の実について 十分理解できるでしょうか?

 また、御霊の実 と言うものはどのような時に表すことが出来る特質なのか

そして その実の一つ一つを考えてみても

例えば ‘’愛‘’ この愛と言うものにはどのような深い意味があるのか、

聖書がここで述べている愛は
一般に認識されている‘’愛‘’とは
どのように異なるのか、

その後に続く 喜び、 平和、 寛容、慈愛、 善意、忠実、柔和、自制、

これらについても同じです。

日本語で、喜び、平和、寛容、慈愛 … と聞くと まあ、その言葉の意味は分からないこともないですが、
聖書が伝えたい、一つ一つの特質の持つ意味は 理解できるでしょうか、

全部で 九つ あるそれぞれの実が どのような特質なのか、また なぜ培っていく必要があるのか、

そういった説明を加えなければ それを聞いた方は それらに どれほど深い意味があるのか、なぜ大切なのか、分からないでしょうし、心にも刺さらないわけです。

※ 御霊の実(霊の実)についての 詳しい解説は、You Tubeチャンネル From KSRG の過去動画で説明してありますので、 是非 探して見てください。

そちらを視聴されると 、それらの 霊の実の一つ一つをそのまま伝えるだけでは 、それを聞いた方は その聖句から十分に益をえることが出来ないと言うことはお分かり頂けると思います。

では どうすればよいのでしょうか?

今回は 視聴者様の質問にお答えすると言うことで 記事を書いていますが、

少し掘りさげて考えますので
もう少し続きがあります…。


で、とりあえず今回は結論から言います、メッセンジャーとしての務めを果たす際に 、直接 聖書のその箇所に書かれていない事で、説明を加えたり、
または、意見や感想など、また祈って黙想した時に気付いた事などを添えて含めることは、何も問題は ないということです。

むしろ、できたら、躊躇せずに そのようにされたらと思います。

( ※ この聖書的な根拠は、後日、このシリーズ内でもう少し詳しく説明 致します。)

それでもし、相手の方に誤解を与えてしまう可能性があると思われるようであれば、
『 これはあくまでも私の個人的な意見ですが… 』とか、『 聖書のこの部分には書かれてありませんが、これには〇〇という意味があるようです』とか、または『 私 個人が祈り、黙想して
インスピレーション的に得たことなんですが… 』などと 一言 付け加えるなら、

誤解を生じさせるという心配もなく、聞く人を励ませるかも知れません。

 
 聖書を解釈するという点に関しては、
今日、世の中にどれほどの人が聖書を解釈しているのでしょうか?

かなりの数の人たちが聖書を解釈しています。

では どの解釈が正しいのでしょうか?

次回は、その点についてメスを入れたいと思います。

全て、聖書的な根拠に基づいて解説いたしますので、関心のお有りの方は ぜひ引き続きお読み頂けたらと思います。