From KSRG ✯【 福音宣教者の業をウェブ上で行う方法 】

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■この記事の内容は 2022年 9月15日に更新しました《 本日のバイブルメッセージ 》(9)の [ 最新版 ] になります。

 

□ 今回の内容に入っていく前に、

先日のお知らせについて少し触れさせて頂きます。

 

 

きっと、皆様も、先回のお知らせの 内容を受け、ご自身に出来る事柄に励んで居られることと思います。

 

 

あいにく、当ブログと、iza2464さんのブログに関しては、その後も 悪魔の妨害に遭っている状況に変化はありません。

 

 

ですが、ヤハウェが 今の この時期に、このような状況を許されていることには、必ず意味があると考えております。

 

 

そのことが 理解出来るまでには、 もう少し忍耐しつつ 待つ必要があるかも知れません。

 

 

ただ、ヤハウェは全知  全能の神です。

 

 

どのような悪魔からの攻撃や妨害も、

我々 関係するすべての者 にとって 良い物を生み出す 機会とすることがお出来になります。

 

試練によって 関係者すべてに最善の結果をもたらすと言うことです。

 

ヤハウェがこの度、どのように物事を進めようとしておられるのか、

我々は、直接 経験させて頂き 目撃出来るという特権にあずかることが出来ます。

 

繰り返しますが、

ヤハウェが、このような状況を許しておられるということには、

 

全ての選別者にとっても大きな益があるはずです。

 

 

おそらく、14万4千人級の皆さまの中から、その事に気付き、(改めて霊的に目覚め)

聖霊からの指示を受け、一層 活動的になる方々が出てくることでしょう。

 

 

引き続き、互いに、ヤハウェに信頼を置きつつ、前進して参りましょう。

 

イザヤ書 30章 15節(新改訳2017年版)
イスラエルの聖なる方、神である主は こう言われた。
『 立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。』····」

 

 

さて、

依然として 当ブログとiza2464さんのブログの状況は、改善されてはおらず、先回 お話した通りです。

読者の皆さまには、引き続き、ご理解とご協力をお願いするものですが、

 

そのような中にあっても、14万4千人級のみなさまが、今後も、積極的に行っていく必要のある。

 

メッセンジャーとしての務めについて、

 

本来この記事は、先回 上げた「お知らせ」よりも前に 更新の予定で作成していたものですが、先回、急きょ 差し替えさせて頂きました。

 

 

ただ、この記事 だけでも、どうにか 皆さまにお届け出来ないものかと 思案し、更新する運びとなりました。

 

ですので、

この記事の更新後については、今の段階では、目処が立っておらず、 はっきりとしたことを 申し上げる事が出来ません。

その事をご理解いただいた上で、今回の内容をお読み下さればと思います。

 

 

   ·  ·  ·  ·  · 

 

 

□まず、本論に入る前に、新共同訳聖書 テモテへの手紙(二)4章 2― 5節 を見てみましょう。

 
「  御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても 悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。
だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」

 

今、まさに この聖句に書かれてあるように、多くの人々が  “ 健全な教え”  つまり、聖書の正確な知識を聞くことから離れています。

 

むしろ、 自分にとって 都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行っている状態にあります。

 

 

そのような 今だからこそ、ヤハウェからの聖書の正確な知識を宣べ伝え、福音宣教者の業に励むことは必須となっています。

 

もちろん、それが出来る方は と言う事ですが。

 

 

では、具体的に、どのように行なうことが出来るのかについて考えて行きましょう。

 

今回の記事は、内容的には、《本日のバイブルメッセージ》(9)と変わってはおりませんが、今の時期に合わせて 最新版と言う事で、改めて お伝え出来ればと思い 書かせて頂きました。

 

それで、

既に 聖霊からの明確な指示を受けて居られる方は、その指示に従って 時宜にかなったメッセージを発信して頂けたらと思います。

 

他方、まだ聖霊からの明確な指示を受けていないと思われる方々については、

 

 

例えば ですが、今の時期から言えば、今は、From KSRG の You Tube動画の内容よりも、当ブログ 及び、iza2464さんのブログの内容を 分かりやすくまとめて下さったり、( 全体をまとめなくても、一部でも良いです。)

 

または、そこから 励みを得られた点や、その記事を読まれて感じた個人的な感想など、( 短いコメントでもかまいません。)

 

さらに、ヤハウェ や、イエス・キリストへの感謝の気持ち、

また、将来の希望や報いに関して、黙想されるなら、色々な感情が溢れ出てくることでしょう。

 

それらを、まとめて書くことも出来るかも知れません。

 

記事を読まれて、励まされた点、個人的に努力しようと思われた事や、また、記事の内容に共感されたなど。

 

そのような内容でも良いと思います。

長い文章にする必要はありません。

形にとらわれずに、自由に行ってみて下さい。

 

 

大切なことは、

•  その内容が 積極的なもの。

  •  読まれる方々に励みや 霊的な力を与えるものであること。

•  ヤハウェを賛美することに繋がるものであるか。等。

 

記事を作成する際には、プレイヤーで 聖霊の 助けを求めて、そうした事柄を確かめつつ、まとめて行かれると良いと思います。

 

そして、記事を作成される際、

 

特に、前回の内容と異なる点は、どの記事を読まれて そのように感じたのかが 読者の方々に分かるような仕方で、記事の初めか 終りに URLを貼っていただけると助かります。

 

 

また、その記事をシェアして頂くだけでも大丈夫です。

つまり、個人的な意見などをまとめることが難しいと思われる方には、そのような内容やコメントは載せれなくても、 記事そのものを紹介して下さるだけでも構わないと言うことです。

 

また、記事に関連のある、ご自身の経験を紹介して頂く事もできます。

 

例えば ですが、記事の中で励まされていた事などを 日常生活で当てはめる努力をしてみた結果、ヤハウェからの 何かしらの祝福を経験したり、実感されたため、今後も更に継続して努力していく決意を抱くようになった、等々。

( 差し支えがなければ、具体的にどのような努力をされて、どのような結果を得られたかなどを書かれるなら 読者の方々の励みとなるかも知れません。

このことは、《本日のバイブルメッセージ》(9)でも お話しましたが、

 

これはあくまでも、差し仕えがなければ、と言うことです。

 

この点で特に注意を払う必要があるのは、

 

その 経験や、やり取りにご家族や他の人が関係している場合、それら、ご家族や関係者のプライバシーの問題があります。

ですので、他の人を励ますためとは言え、全て赤裸々に何でも話してしまうことは、避けるのが賢明なこともあります。

 

たとえ それが他の人を励ましたいという目的からとは言え、それら他の関係者が漏らして欲しくない内容を、漏らしている となれば、きっと ご家族や関係者は心穏やかでいられないでしょう。

 

大切な方々の信頼を損なうことに繋がりかねません。(ウェブ上ともなれば 尚更の事です。)

 

また、配信者自身が思っている以上にご家族にとって、家庭内でのことで他人に知られたくないことは少なくないかも知れません。

 

それらのことをよく考慮され、

ある部分に関しては、内容を伏せるなどの配慮が必要となるかも知れません。

 
( 関係する情報など、やり取りの内容をどのように書くかについて、ご家族や関係者は全て理解し、また、了承しているでしょうか。もしその点が不確かであれば、どれほど伝えたいと思っても敢えてその部分には触れない事が最善かも知れませんし、場合によっては、内容そのものを紹介することを差し控える方が賢明である時もあります。
関係する他の人の感情に配慮することは 愛を示す大切な機会となります。御霊の実について思い巡らせてみましょう。)
ガラテヤ人への手紙 5章 22節  
[ 御霊の実は、愛、喜び、平和(平安)、寛容、親切(慈愛)善意、誠実(忠実)、柔和、自制です。これらを否定する律法はない。]
(・ 口語訳・新改訳2017年版 )

 

マタイの福音書7章12節 の黄金律を、そのような時に 当てはめる事も出来るでしょう。
マタイの福音書 7章12節(口語訳)
「 ··· 何事でも 人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」
(これが律法と預言者たちの意味するところである)という事ですが、
この聖句は、解説するまでもないかも知れませんが、誤解のないように 少し説明しますと、
つまり、この 
‘’自分が、人々からしてほしいと望むこと ‘’
(自分にして欲しいと思うこと)
というのは、文字通り自分から見た、つまり自分にとって して欲しい事 という意味ではありません。
※ 相手の状況や、要望、感情を考慮すると言うことです。
そうでなければ、自分の基準や好みで相手に 何かを行う事になり、結局は自分の好みを押し付けたり、自分中心に行動することになってしまうからです。
先ほどの聖句は、(別の何か、もっと重要な原則に反しない限り)、
自分の感情や好みよりも、相手の感情や、意向を優先させるという意味です。
※ 少しややこしい説明だったかも知れませんが、ご理解頂けたでしょうか。

 

  ·  ·  ·  ·  ·

 

その他の注意点としては、本日のバイブルメッセージ(9)をご参考になさってみて下さい。

 

 

今回の記事の内容は以上となりますが、

 

現在、ヨハネの黙示録 11章

で言う、三日半という 特別な期間に突入しています。

 

iza2464さんのブログでも言及されていましたが、

 

もし、ご自身で ウェブという方法で、福音宣教者の業を行うのが、難しいと思われる方々や、または、今はご自分の状況が許されないと思われる方々も、

収穫の主 である、ヤハウェに、働き手を送り出して下さい。というプレイヤーを行うことで、

この同じ業に貢献することができます。

 

 

そのようにプレイヤーをする事は、御霊の実の どの特質を表す機会となるでしょうか、····

そうする事が、ヤハウェに喜んで頂けると言える理由について、思い巡らせてみましょう。

 

どんな 些細と思える事柄でも、ご自身が行える事で、これを行えばヤハウェが喜んで下さると感じたなら、躊躇せず、行って下さい。

 

 

そのようにされるなら、ヤハウェ聖霊によって、さらに皆さまを動かして下さり、祝福で満たされることでしょう。

 

 

以上となります。

お読み頂き感謝致します。

 

 

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From KSRG ✯ お知らせ

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 ·・お知らせ・·

 

■ 読者の方々へ、

この危機的な状況が進んでいく世にあって、

これまでも、悪魔からの様々な攻撃や妨害を受けて参りましたが、

 

 

今、当ブログと iza2464さんのブログに深刻な事態が生じ、新しい記事の更新が出来ないという状況におかれています。

 

この度 このようなお知らせをしなければならないことを、大変 心苦しく思います。

(※ 申し訳ありませんが 今の時点では 詳細は控えさせて頂きます。)

 

これまで 更新してきました記事の内容のほとんどは、まだまだ解説の途中の段階にあり、続きの解説を必要としていますし、

 

 

14万4千人級が整えられて行くため、

また、この激動の時代 特有の注意喚起や訓戒、ヤハウェの御旨、皆さまへの励ましは、益々 必要となっているところです。

 

 

読者の皆さまも きっと続きの内容を心待ちにして居られることでしょう。

 

 

我々も本来、足止めされている場合ではありません。

 

それで、iza2464さんのブログ と 私どものブログが、この時点で、配信を途絶えさせてしまうという事は何とか避けたいと考えております。

 

最も大切なこの時期に、このようなお知らせをすることで、皆さまを当惑させ、本当に申し訳なく思います。

 

ただ、ヤハウェはどのような形でも、望ましい者を用いて皆さまに、必要な情報を与えることがお出来になることも理解しております。

 

羊は羊飼いの世話を必要としており、

ヤハウェは偉大な牧者です。皆さまを放置されることなど 決してありません。

 

 

ですが、もし可能であれば、私どものブログから再び記事の更新が可能となるよう、

皆さまからの プレイヤーをお願いしたく、取り急ぎ ここにお伝えさせて頂いた次第です。

 

もしくは、相応しい時に 何らかの方法で、ヤハウェからの霊的な食物が、14万4千人級の皆さまに届けられますよう心から願っております。

 

ヤハウェは今後も皆さまの近くに居られ、皆さま一人一人のことを支えて下さることでしょう。

 

 

また、今後 何か お知らせできるような進展がありましたら、話せる範囲で、お知らせしたいと思います。

 

 

それまでの間も、

どうぞ、皆さま 各自が 聖書の個人研究(過去の配信内容の復習など)と、プレイヤー、また、これまでに得てこられた情報を一つでも多く実践されるよう励まれて、

ヤハウェとの個人的な関係を深め、信仰の仲間への愛を強めて頂ければ幸いです。

 

※ 今回の内容とも関係のある聖句を下に挙げておきますので、ぜひ 黙想されて 益を得て下さればと思います。
 
·  詩篇 23篇 1− 4節(口語訳)
·  詩篇 34篇 15−19節(口語訳)。

 

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From KSRG ✯「 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 」−(41)

°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°  No.41

 

 

⬜ では 早速、前回からの続きで、11章 9節 の「 もろもろの ····人々 」が 誰を表しているのか、について解説して行きます。

 

まず、その節 全体を見てみますと、

 
新改訳聖書 2017年版 11章 9節

「 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺めていて、その死体を墓に葬ることを許さない。」

 

 

と 書かれてありますが、

 

 

ここで  “死体” と訳されている ギリシャ語は

 

字義的には、死者、死んだ者 です。

まず、このことを押さえておいて下さい。

 

ですから、その死体、

つまり、比喩的な意味で死んだ者を墓に葬ることを許さない と言う事です。

 

 

そして “死者、死んだ者” から更に 考えて行きたいと思いますが、

 

 

どうしても、死体とか、遺体 などのように訳されていると 、何も出来ない、無活動の状態 と言うイメージを抱いてしまうと思うのですが、

 

 

しかし、字義的には、死者、死んだ者 と言う意味であるわけです。

 

 

そして 、死んだ者 と言うと、何に対して死んだ者なのかと言う 方向にも広げて黙想 できます。

 

   

また、更に それに関連した 他の聖句とも関連させて 解釈できます。 

 

 

 

ヨハネの黙示録 11章 8節を見てみますと、

「 彼らの死体は 」と言うふうに訳されています。

( これは日本語のすべての訳で、そのように訳されています。)

 

 

しかし、海外のほとんどの聖書の この部分を直訳すると、

それら “ 死んだ者たちは ”

なのです。

 

 

そして 9節の中ほど の

「 彼らの死体を眺めていて」

と言う この部分も すべての日本語の訳では、そのように訳されているのですが、

 

これも 同じです。

 

字義通りに訳すなら、

“ それら、死んだ者たちを眺めていて ”   なのです。

 

 

また、「 その死体を墓に葬ることを許さない 」

この部分も同様で、字義通りに訳すなら、

“ その 死んだ者たちを 墓に葬ることを許さない ”

となるのです。

 

 

この点に関しては、日本語訳では 字義通りに訳されておらず、恐らく 先入観、思い込みからこのように訳されたと言う事なのでしょう。

 

 

それでは、

ここで 言っている

「 死んだ者 」とは、どういう意味なのでしょうか。

 

 

結論から言いますと、

悪魔の世に対しては死に、キリストを通して ヤハウェのものになった者

と言うことです。

 

 

 

今から挙げる 3つの聖句は、とても大切な聖句ですので、後々、深掘り考察 する予定ですが、とりあえず、

今回は、下に 記載しておきますので、皆様で黙想なさってみて下さい。

      

                       ⇩

 
新改訳聖書2017年版から )
1、ローマ人への手紙 6章 3節
「 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」
 
2、コロサイ人への手紙 3章 3節
「 あなたがたは すでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」
 
3、ローマ人への手紙 14章 7・8節
「 私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」
 

前述の通り、ここに 挙げた聖句は、後ほど 改めて 解説致しますが、

 

ここで言っている、“死体” つまり “死んだ者” とは そのような意味であると言うことを 押さえて頂ければと思います。

 

 

それでは、続けて行きたいと思います。

 

 

 

 

この 9節 の人々は、象徴的な 三日半の間、その死体を、つまり、先ほどの解釈でいう 死んだ者たち を 眺めていて、と書かれてあるわけです。

 

 

ここで、“ 眺めていて ” と訳されている ギリシャ語の意味は、

 

解釈的には、
よくよく見つめる、熟視する、良い事、また 価値ある事を真剣な態度で見つめること、見渡す(網羅する。)、知識を深める、納得の行くまで学ぶこと、 
などの意味があります。

 

 

日本語の訳では、“ 眺めていて ” と訳されており、

 

日本語の眺めるという語には、通常は、

 

つくづくと見つめる、物思いにふける、感情を込め、または、感傷的な態度で見つめる、見渡す、特にそれが良いこと、見やるべき価値のあるものをよくよく見つめる などの意味がありますが、

 

本来、9節のこの部分で使われている語は、先に挙げた意味を持つギリシャ語が使われていると言う事です。

 

 

日本語の中には、その言葉を 一言で表現できるような丁度よい言葉が無かったがゆえに、

その中でも最も近い言葉を選び、“眺めていて” と訳されたと言う事です。

 

 

では  その次に、

「 その死体を墓に葬ることを許さない。」

と 訳されている、このギリシャ語の意味です。

   

               ⇩

見過ごすことが出来ない、納得できない、見て見ぬふりができない、見逃すわけにはいかない、同意できない、と言う意味で 
要するに、揉み消すことを許さない。ということです。

 

聖書の中で 墓は、無の状態 または、無活動と言う意味もありますので、

 

9節に出て来る人々には、

二人の証人が、そのようになる事を見過ごせない、受け入れられない、納得出来ない、見て見ぬふりが出来ない、見逃すわけにはいかない、揉み消すことを許さない、と言う 強い思い、強い意思 がある と言う事です。

 

 

10節に出て来る「 地の人々」とは、何と対照的なのでしょう。

【* “その者たち” は、その時に 二人の証人が、悪魔の世に対しては死に、キリストを通してヤハウェのものとなったなどと言う事実を知りません。只々 活動をやめたことに対して 喜んでいるということです。】

 

 

この11章9節の “人々”こそ、ヨハネの黙示録 7章 9節に書かれてある、

「 その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子(やし)の枝を持っていた。」

と書かれてある人たちの事です。

 

ご納得 いただけたでしょうか。

 

 

ここまでで、

ヨハネの黙示録11章 9節からの部分に書かれてあるように、

 

また、9・10節 の意味を考えただけでも、二人の証人は決して無活動の状態ではない と言う事が分かると思います。

 

 

ヨハネの黙示録 11章 8節からの部分に書かれてあるように、霊的な理解では、悪魔の世から見れば死に、正式にヤハウェのものとなった者たちのことを、

今回の、“ 眺めている ”  という意味で、

 

三日半の期間中、その “死んだ者たち” から、

納得の行くまで、知識を深めている者たちがいるからです。

 

 

それでは、次回、ヨハネの黙示録 11章 11節にもう一度戻り、この三日半の奥義について、話を進めて行きたいと思います。

 

( ※ この11節の解釈については、新改訳聖書2017年版の訳でなければ、正しく解釈することは出来ません。)

 

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🔹iza2464さんのブログはこちらから。

 

      ⇩

 

https://iza2464.hatenablog.com/about

 

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From KSRG ✯「 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 」−(40)

°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°    No.40

 

⬜ 今回から、9・10節の解説に入って行きますが、

 

 

二人の証人が 殺された時、

新改訳聖書 2017年版の 9節を見ると、

 

「 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、···· 」

 

と書かれてあります。

 

 

そして 10節には、

「 地に住む者たちは、····」

 

とあるのですが。

 

 

この9節の人々と、10節の地に住む者たちは、同じ者のことを言っているのでしょうか。

 

┄ もし同じ人々のことを言っているのであれば、

 

「 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、·····  許さない。」

 

そして、 そのまま 10節の 

「 彼らのことで喜び祝って····」

と 続けても 良いわけです。

 

 

しかし 繰り返しますが、10節で、敢えて

「 地に住む者たちは 」

と言う言葉が入っているのです。

 

実は この言葉が 入っていることには意味があります。

 
( ※ この 11章10節 では、“地に住む者たち ” と言うワードが 二度 使われています。
聖書の預言を解き明かす際に、同じワードが二度使われている場合、これは 以前にも説明しましたが、三日半の場合と同様、ある 特別なメッセージを読者に 印象付ける目的で、そのような用法が用いられる事があります。
今回の場合、9節に登場している 人々と、10節に登場してくる 地に住む者たち は、 さらっと流して読むと、一見 同じ人々の事を指しているように思われがちですが、地に住む者たち と言うワードが敢えて二度使われていることにより、9節の人々とは全く 別の者であると言うメッセージを読者に示していることが分かります。)

 

 

結論から言いますと、こ

の 9節に書かれている人たちと 10節で述べられている者たちは、同じものではありません。

 

その事は、日本語訳だけでも理解できると思いますが。

 

     

この点は ここではっきりさせておきたいと思います。

 

 

それで まずは、この10節で 述べられている人たちが何者なのかについて、

 

これは、You Tubeチャンネル From KSRG の動画の中で解説していた、

「 地の用法」から考えてみることが出来ます。

 

“ 地 ” と言うワードが預言的 描写で使われている場合、

 

国々、特定の人々、安定性、整えられている、備えられている、

などを表していました。

 

 

そうしますと、ここに出て来る  地に住む者たち は、

 

全世界の、ある特定の人々であり、それも整えられ、備えられ、安定している と言える、

 

平たく言うと、

世間一般的に見て、ある意味 信頼できる、そして一目置かれているなど ┄。

 

そして この文脈から分かることですが、

宗教的な意味において、安定している特定の人々と考えることが出来ます。

 

 

そこまで説明すれば、ある程度 お分りになるかも知れませんが、

 

 

これは、バイブルを聖典とした すべての 宗教世界の人々を表していると言えます。

 

主に キリスト教です。

 

実際に多くのキリスト教は、神父や牧師 等、この世で認められている、一目置かれている教師たちが、信者たちを教えています。

また、目に見える立派な建物、そこに足を踏み入れただけで、ある人々はその荘厳な雰囲気に圧倒され、そこに神がおられると感じる方もいます。

 

或は、指導者が、神父や牧師と呼ばれていないとしても、この世から、宗教法人として

法人格を取得していることでも、国の法律によって保護されます。

そういった面でも、安定していると言えるでしょう。

 
.....
 
宗教団体が、法人格を取得することにどのようなメリットがあるのか、 少し 宗教法人法から、法人の目的  について 紹介します。
( ※ 以下は宗教法人法から一部抜粋したものです。ご自身でも調べる事ができますので、気になる方は、確認してみて下さい。)
··· 第一条 ···
① この法律は、宗教団体が、礼拝の施設 その他の財産を所有し、それを維持 運用し、その他 その目的達成の為の 業務 及び、事業を運営することに資するため、宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする。
憲法で保障された 信教の自由は、すべての国政において 尊重されなければならない。従って、この法律のいかなる規定も、個人、集団 または 団体が、その 保障された自由に基いて、教義を広め、儀式 行事を行い、その他 宗教上の行為を行うことを制限するものと解釈してはならない。
 
そして、第二条 へと続いているわけですが、
 
事実、宗教法人化のメリットは、法人名義で財産を所有できる。
収益事業の所得に課される法人税率が低い。
収益事業を行わない限り、法人事業税、道府県民税、市町村民税を課されない。(言い換えれば、収益事業という名目でなければ、収益に対する税は課されません。)
例えば、···· これは 事業ではありません、ボランティアです。
テキスト等は基本は無料です。
しかし、お布施 寄付としては受け取ります。
と このような仕方であれば、収益があっても税は課されないということです。(これは一例です。)
また、利子所得、配当所得 等について、所得税が課されない。
都市計画税が課されない。
これらは、宗教法人化することに関する日本の法律の ほんの一部ですが、一言で言うならば、法人格を国から取得する事により、その団体、組織に対する国からの様々な保護が得られるということです。

 

 

ですから信者たちは、そういった意味においても、安定していて、整えられている、

それぞれの宗教の組織の中に籍を置き、定期的に集って、そこでの責任を果しているならば、┄

 

(  信者の責任には、
例えば  • 教理面において そこでの指導者に従う事。
• 要求されている御布施をきちんと払う。
• そこで出版されているテキストなどを寄付等を支払う形で受け取る。
• ミサ、クリスマス、イースター等のいわゆる特別な行事に参加するに当たって、その教会のやり方に忠実に従う 等々。)

 

そうしてさえいるなら、聖書で言う、

天国は約束されている、と信じているわけです。

 

ただし、

この文脈の趣旨から読み取れるのは、一般の信者と言うより、

特に 宗教指導者を表していると言えます。

 

実際に、指導者の立場にいる人たちは、

真理の正確な知識を知ったとしても、自分を、また 自分たちの信条や教理を正そうとはしないでしょう。

そのような かたくなとも言える 宗教指導者たちは、

先ほどの条件に最も当てはまると言えます。

 

指導的な立場の人たちが、自分の生き方、自分の信条や教理を聖書の正確な知識に沿って正すことは、直結、自分の今の立場、収入源などを失う事に繫がることを知っていますから、それでも正そうとする者がいるかということです。

 

 

ですから、彼らは、

10節の中ほどにあるように、「 彼らのことで 」つまり、二人の証人が殺された事に関して、

「 喜び祝って、互いに贈り物を交わす。」

と 書かれてあるのです。

 

 

なぜ 喜ぶのでしょうか、

その理由は、続く部分に このように あります。

 

「 この二人の預言者たちが、地に住む者たちを苦しめたからである。」

··· と。

 

二人の証人の述べ伝えている内容が “地に住む者たち” を  大いに不快にし、苦しめる ものだったと言う事です。

 

 

そして 次に、興味深い点として、

 

「 地に住む者たち 」と言うのが、

9節に書かれてある人々とは、別の人々のことを言っている事の根拠の一つとして、

 

 

それらの人々は、二人の証人が死んだので、

(ほんの短い期間)喜び祝って、互いに贈り物を交わした、と言っているのであって、

 

三日半という期間、二人の証人のことを眺めているわけではありません。

その事からも分かると思います。

 

 

後で解説していきますが、

まず、“ 喜び祝って、互いに贈り物を交わした期間 ” と

 

“ 三日半 ” という期間 は全く違います。

 

 

では、9節に登場している、「 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々  」

 

とは 誰の事を述べているのでしょうか。

 

その点を考えてみましょう。

 

 

彼らは三日半の間、彼ら(二人の証人)の死体を眺めていて、とあります。

 

 

この状況を常識的な観点から考えてみますと、

 

パレスチナ地方で、

亡くなった人を三日半もの間 見続けるというのは無理があるでしょう。

 

 

実は、この 9節の意味を理解するには、

 

 

9節の「 彼らの死体を眺めていて 」

とある、

 

この  “ 眺めていて ” と訳されている  ギリシャ語。

 

そして 、「 その死体を墓に葬ることを許さない 」 の、

“葬ることを許さない”

と 訳されているギリシャ語、

 

これらが、この部分を理解する カギ となります。

 

 

そして 実は、この 9節 に登場してくる人々は、ヨハネの黙示録の別の ある箇所にも、同じような描写で登場しています。

 

 

では、次回 から これらの続きを解説して行きたいと思います。

 

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◇ 今回 最後に、この事も 皆様に お伝えしたいと思います。
現在、ヨハネの黙示録で言う、三日半の期間に入っています。
この特別な期間については、引き続き 当ブログの連載記事で情報をお分かちしていきたいと思います。
また、iza2464さんのブログからは、別の角度から、この三日半という期間は、特に14万4千人級は、何をしていなければならない期間なのか。
についての詳細を明らかにしてくれることでしょう。
一つだけ、ここで言える事は、今は利己的になっている時ではないということです。
“利己的” とはどういった思考の事でしょうか?
次のイエス・キリストの言葉からも 黙想する事ができます。 
イエス・キリストは、マタイの福音書 6章25節 でこのように言われました。 

 

(新改訳2017年版)
「 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか 何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。····」
 
また、
マタイの福音書 16章25・26節   では このようにも 言われました。
 
「 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は それを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」
 
今は、人間的な主観で、利己的になっている時ではありません。
たとえ それが、5つの事に関係することで、備蓄や武装などに関することであっても 注意は必要です。
祈りのうちに、計画的に物事を進めてきたなら、後はヤハウェに委ねることができるでしょう。
 
“もう少し〇〇を足さないといけないだろうか?” とか、“△△もあったほうが良いだろうか? ” と、 “過度に不安に感じたり”、“思い煩っている” とするなら、まさに先ほどの聖句の状態にあると言えるかも知れません。
もし  必要であれば、ヤハウェが備えるように動かして下さっていることでしょうし、
その時が来たら、困らないように何の不自由も、何の不足も無い状態にしておきたいというのは、
現実的ではないかも知れませんし、そのような見方は 人間的と言えるでしょう。
自分に出来ることを精一杯 行ったなら 後は、有るもので  ┄、
つまり、ヤハウェに頼るということです。
 
そのような点においても、今は、利己的になっている時ではありません。
むしろ、ヤハウェとの関係を強め、益々 利他的になるよう励むことに集中すべき時です。
 
そのことを先ほどの聖句から、読み取って頂けたらと思います。
 
今回はこの事を最後に付け足させて頂きました。
   

 

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From KSRG ☆ ·・次回 の更新日のお知らせ・·

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*次回の更新のお知らせ*

 

■ 記事を読んで下さっている皆様へ。

 

次回の記事の更新予定は、当ブログからは、7月1日。

そして、iza2464さんのブログからは、7月2日 の予定をしております。

 

どうぞ宜しくお願いいたします。

 

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From KSRG ✯「 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 」−(39)

°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°  No.39

 

⬜ では 早速、ヨハネの黙示録 11章 8節 の考察をしていきたいと思います。

 

 

新改訳聖書 2017年版によると、

 

「 彼らの死体は大きな都の大通りにさらされる。····」

とあります。

 

 

まず、ここで言っている  大きな都 とは何の事 なのでしょうか。

 

この  大きな都  と言うのは、大いなるバビロン(大バビロン)が支配している 世 を表しています。

要するに  全世界  と言う事です。

 

そして さらに、“大通りに” と言うワードからも、世界中で と言うことが読み取れます。

 

 

 実際に、イエス・キリストも、この節の後半に書かれてあるように、

この悪魔の世、もっと具体的に言うと、当時のユダヤの体制で支配していたサンヘドリン、その支配下にあった当時の ユダヤの世で、十字架に掛けられました。

( 実際に死刑を執行したのはローマ人でしたが、十字架に掛けられた場所は、エルサレムの周辺に位置していたゴルゴダの丘でした。)

 

そして、次が 興味深いのですが。

新改訳聖書 2017年版の表現を使うならば、

 

「 その都は、 霊的な理解では ソドムやエジプトと呼ばれ ····」  とあります。

 

これは、どのような意味でしょうか。

 

“ ソドム”  と言うワードが預言的な描写 として使われる場合、罪深さ  や  汚れ を 象徴しています。

 

 

では、エジプト は、何を意味するのでしょうか。

 

聖書の中では、エジプトは、最初の世界強国として描かれています。

その事も知識として、押さえて置かれるとよいのですが、

 

“ エジプト ” と言うワードが、預言的 描写 として 使われる場合は、

悪魔の世 全体 を表します。

 

それが、どのような支配形態であろうが、

悪魔の世 全体 を表すときにエジプト と言う表現を使います。

 

つまり、二人の証人は、ソドムのように 汚れ、また 罪深い、

“エジプト” で表されているような、悪魔の世 全体の中で、

しかも “ 大通り” ですから、誰もが、分かるような仕方でさらされた と言う意味です。

 

 

  - - - - - - -

 

* ここから 少し  “エジプト” と言う観点から考えてみたいと思います。

 

 

私たちは 現在、ローマ人への手紙 13章にあるように、この世の権威、

日本であるならば、日本国憲法の下で、法律を遵守しなければ なりません。

それは 至極 当然の事です。

 

その中で、政府や 地方自治体が提供する、公共的なサービスを利用する事も出来ます。

 

 

その為にも、税金を納めてもいるのです。

聖書に書かれてある通りです。

 

 

また、その他にも この世(企業やその他)が提供している、色々なツールや サービスなども利用する事は出来るでしょう。

 

 

しかし、次の点は忘れてはなりません。

 

イエス・キリストは、マルコによる福音書 12章 17節 でこのように言われました。

                      ⇩

 

12章 17節 (新改訳聖書2017年版)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」

 

エスは ここで 何を教えていたのでしょうか。

 

 

カエサル ”とは、当時の政治権力者のことです。

 

つまり、カエサルに返す と言うのは、市民として そこで生活している以上、その国の法律を守り、政治権力者の要求には従う責任があると言うこと事です。

 

 

しかし、

人は 同時に “神に返す”

つまり、神に対する責任があります。

 

 

命を頂いて、

ヤハウェを 愛し、崇拝する私たちは、 神ヤハウェにお返しする事を第一にすると言う責任があります。

 

ですから、イエス・キリストの この言葉には、

もし仮に、カエサルの命令と、神の命令との どちらか一方を選択しなければならないと言う事態が生じた 時には、

ヤハウェに従うべきであると言う重要な真理が込められていた訳です。

 

 

ただ、誤解の無いように、もう少し お話 しますが、

勿論、先ほどから悪魔の世とは言っていますが、この世が提供するものを 何一つ利用しては いけないと言うわけでは無いのです。

 

 

ヤハウェの義の基準に反しない限り、利用できるものは利用すればよいのですが。

 

 

ただ、ヤハウェ抜きで、つまり、ヤハウェのご意思、み旨を蔑ろにし、無視してまでも、この世を利用しようとするなら、と言うこと事です。

そのような者に対して、ヤハウェはどのように見て居られるのか、と言う事です。

 

 

イザヤ書 30章 1− 11節には次のように書かれてあります。

(※ これは、象徴的なエジプト、つまり この悪魔の世にだけに頼ろうとする者たちについて述べているものです。)
                           ⇩
新改訳聖書2017年版
[  わざわいだ、頑な(かたくな)な子ら。
 __ 主のことば __
彼らは はかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。
彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示を仰がない。
ファラオの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。
しかし、ファラオの保護に頼ることはあなたがたの恥となり、エジプトの陰に身を隠すことは恥辱となる。
その首長たちがツォアンにいても、その使者たちがハネスに着いても、彼らはみな辱められる。
自分たちにとって役に立たない民のゆえに。
その民は彼らの助けとならず、役にも立たない。かえって恥となり、そしりの的となる。
ネゲブの獣についての宣告。
「 苦難と苦悩の地を通り、雌獅子や雄獅子、まむしや、飛び回る燃える蛇のいるところを通り、彼らはその財宝をろばの背に載せ、宝物をらくだのこぶに載せて、役にも立たない民のところに運ぶ。  エジプトの助けは空しく、当てにならない。  たから、わたしはこれを『何もしないラハブ』と呼ぶ。」
「 今、行って、彼らの前でこれを板に書き、書物にこれを記し、後の日のために永遠の証しとせよ。
彼らは反逆の民、嘘つきの子ら、主のおしえを聞こうとしない子らだから。
彼らは予見者に『見るな』と言い、先見者にはこう言う。 
『 われわれについて正しいことを幻で見るな。 われわれに心地よいことを語り、だましごとを預言せよ。  道から外れ、道筋からそれ、われわれの前から    イスラエルの聖なる方を消せ。』」  ]
 
( ※  この部分は各自 祈りのうちに黙想なさって頂ければ と思います。)

 

今回は、ヨハネの黙示録11章 8節 の考察で、

少々 飛躍しましたが 

“ エジプト” から考えてみました。

 エジプト  については、今後の 解説 の中にも出てきますので、押さえておいて頂けたらと思います。

(   エジプト  ⇨   悪魔の世 、または、悪魔の世 全体  )

 

では、次回から、9・10 節を考察して行きたいと思います。

 9・10節は 奥義 です。

 

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From KSRG ✯「 神の言葉 [聖書] は とこしえに残る 」(38)

°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°°  No.38

 

⬜ 今回から

ヨハネの黙示録 11章 8節の考察を行いたいと思います。

( 内容は前回からの続きになります。)

 

 

口語訳 を見ると

「 彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。

彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。」

と書かれてあります。

 

 

この部分なのですが、

 

 

彼らの死体 と言うのは、文字通りの死体でないことは お分りかと思います。

 

····その後に続き

ソドムやエジプトにたとえられている 大いなる都の大通りにさらされる。

とあるからです。

勿論 この部分の解説も行っていくのですが ┄。

 

 

┄ 確かに、西と東の主だった者たちは、一匹の獣からの攻撃を受け、手仕舞いを付けて自主的に活動を終えたわけですが、

ここで述べられているのは、あくまでも 象徴的な表現であることはお分かり頂けると思います。

 

 

それで、興味深いのは

新改訳聖書 2017年版の訳し方です。

 

次のように書かれてあります。  

      ⇩

「 彼らの死体は大きな都の大通りにさらされる。その都は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれ、そこで彼らの主も十字架にかけらたのである。」

 

 

ここで述べられている

 

 

“ 霊的な理解では、ソドム と エジプト と呼ばれ”   ているもの。

そして、

“ 彼らの主(イエス・キリスト)が十字架にかけらた ” ところ。 

です。

 

この、

“ ソドム と エジプト ” については 後で考えるとして、

 

 

“ 彼らの主 ” つまり、イエス・キリストが十字架にかけられたところ、

こちらから考えてみましょう。

 

 

イエス・キリストは、ゴルゴダの丘で十字架にかけられました。

 

一般に、ゴルゴダの丘は、エルサレムの丘と呼ばれています。

 

 

ここで一つ押さえて置くべきことは、

イエス・キリストは誰によって死に追い込まれたのかと言うことです。

 

 

それは ユダヤ人 です。

 

マタイによる福音書 27章 24−25節 から確認してみましょう。

 

24節の中ほどを見てみますと、

 

ピラトはユダヤ人の群衆を前にして こう述べています。(口語訳)

 

『 この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい 』。

 

それに対し、そこに居た群衆(ユダヤ人)は、一斉に このように言い放ったのです。

 

 

「 すると、民衆全体が答えて言った、『 その血の責任は、われわれと われわれの子孫の上にかかってもよい』。

 

 

この 一部始終 をご覧になっていたヤハウェは その時の状況、ユダヤ人たちが語った言葉 を

聖書に残されたわけです。

 

 

時は過ぎ

 

┅ 現在、バイブルを聖典とする宗教世界は、ユダヤ人に救いを求めているわけです。

でも、それが 自称ユダヤ であろうが、正当ユダヤであろうが、そもそも ユダヤ人に救い(救う力)はありません。

なぜなら、彼ら自らヤハウェからの救済の機会を蹴ったからです。

 

そのように メシア(救世主)が、現在のユダヤ人から現れると信じて居られる方々には残念ですが、これが 聖書からの答えです。

 

 

また 例えば、スピリチュアル界や、一部の 都市伝説界によると、『日本に渡って来ているユダヤ人、これこそが正当ユダヤであり、今後  そのユダヤの血を持った者からメシアが現れる』などと、

そのように盲信している方々も居られるようですが、

そのような説については、もう論外としか言いようがありません。

 

 

それでは、二人の証人が さらされる。とは、どのような意味なのでしょうか。

 

また、霊的な理解でたとえられている ソドム、そしてエジプト とは、何を表しているのでしょうか。

 

そして、彼らの主もそこで十字架にかけらた と言う この部分は、どのように解釈されるべきなのでしょうか。

 

次回から それらを、一つ一つ ひも解いて行きたいと思います。

 

 

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